オタクとカスの強制力

このところ楽しみにしていたブログ記事、『歌会終』が公開された。この方々の前回作、『カスのプレバト』に笑わされ、そして魅せられたわたしは、今月のすくなくない時間を費やして、この『この世の終わりのような』短歌の投稿フォームを、短歌と、短歌のかたちをした何かと、短歌のかたちすらしていない何かで埋め尽くし続けてきた。本日、記事が公開されることにより、掃き溜めのように雑然としたことばの羅列は、晴れて審査され評価される光栄に預かることになった、というわけである。

 

わたしの送った文字列のいくつかは、晴れて優秀作品の名を預かることになったわけだが、まあそれは置いておこう。わたしは以前にも短歌を詠もうと志したことはあるし、あのフォームを埋めていた多くの『インターネットオタク』たちと比べれば、おそらく一日の長があったはずだ。真面目さが想定されないフィールドで真面目さで勝利したとして、それは特に誇るべきことではない。

 

さて、主催者の方々によれば、この歌会は、『インターネットオタクがカスみたいな和歌をばんばか詠み合う』ことが想定されていたようだ。この表現を見て、われわれが思うのはこういうことだ――「本当に何を送ってもいいのだ」。

 

だが、インターネットオタクとは果たして、何だろうか?

 

インターネットオタク自身にありがちな冷笑主義は、この問いにこう答えるだろう。それは、人間のことなのだ、と。このご時世、インターネットと無縁で過ごせる人間は多くないし、『オタク』ということばはすでに、何かをマニアックに愛するものという本来の用法を離れ、単なる一人称の複数形へと拡大解釈されているからだ。

 

だが、その冷笑主義は、冷笑であるがゆえに正確でない。『オタク』の定義にはもう一つの側面、すなわちオタクとオタクとの同類性が存在するように、わたしは思う。

 

どういうことか。オタクは、『オタク』であることを離れてはいけない。オタクに恋人がいてはならないし、風呂に入ってはならないし、そして実は風呂には毎日入っていることを、ほかのオタクと一緒になって叫ばなければならない。オタクは醜いものだという言説に同調すると同時に、その批判を、自分自身にも向けねばならない。言い換えれば、オタクの定義とは、ほかのオタクの足を、みずからの足もろとも引っ張ることを礎とする、堕落した紐帯なのだ。

 

もちろん、当のオタクはそんなことは分かっている――少なくとも、分かるべきだという規範を共有する人間を、オタクはオタクと見做している。だからわたしのこの文章は、どうしようもなくオタク的だ。不必要な自己批判の連鎖で、自ら作り出した傷を舐めながら紐帯を強める。それこそ、オタクをオタクたらしめる特質なのだから。

 

さて、こう見ることにすれば、「何を送ってもいい」理由が理解できるだろう。インターネットオタクとはカスであり……そして、カスであることを自分たちに強いるからだ。強いなければならないからだ。そしてその強制に、従わなければならないからだ。この堕落した不文律を変えようと志すものを仲間外れにし、冷笑する者、あるいはあえて破ろうとするものは賞賛せねばならないからだ。

 

さあ、オタクでいよう。カスになろう。わたしがきみの足をひっぱってやるから、きみもわたしの足を引っ張るのだ。すべてを冷笑し、そして冷笑されることを受け入れよう。そう、それこそがこの世の終わり。だがきみも知っての通り、終末はとても心地よい。