サイエンスの中のフィクション ②

そんな風に、ほかの分野のストーリーをながめていると。リアリストを名乗る冷笑主義者のひとりとしてわたしは、まあ……そうだな、それが彼らの生存戦略なのだな、というふうに思う。

 

彼らの語る夢はほとんど実現不可能で、そのことは彼ら自身がいちばんよく分かっているはずだ。物事に詳しいとはつまるところ、そのものの限界を知っているということで、そして研究者とは自身のテーマに世界一詳しい人間のことなのだ。技術・予算・材料その他すべての制約に、彼らはすでに気づいている。気づいているのにも関わらず、大仰なストーリーというハッタリをかまし続ける。

 

それは、皆に夢を見せるためだ。技術の限界を知らない大衆に、人類がその気になればすぐに太陽系から脱出できると無邪気に信じているような大衆に夢を見せて、自分たちに投資してもらうためだ。

 

でも、時折。

 

……本当に時折だが、ほんのすこし、そんな彼らがうらやましく見えてきてしまうことがある。

 

科学のプロセスの中で、およそ実現困難なフィクションをぶち上げること。そういうフィクションの中に、みずからの科学研究の必要性を位置づけること。これはまさしく文字通りの意味で、サイエンス・フィクションであると言えるだろう。

 

サイエンス・フィクションならば、わたしも愛するところだ。わたしはよく SF を読むし、感動を覚えたと言える作品の多くが SF だ。フィクションの世界の不可逆変化にわたしは舌を巻くし、よくできた世界は、まるで現実かのような錯覚をわたしに覚えさせる。さらにいえば読むだけでは飽き足らず、自分で書いてみようとまで企んでいる。

 

そしていくつかの分野では、研究者という生き物は。自分の仕事の中で、固定給をもらいながら、近未来に関する妄想をくり広げて記述しているのだ!

 

わたしたちの分野では、おそらくそうはいかない。わたしたちの研究は、理論研究というものは、紙とペンの外側にはけっして出てこない。宇宙エレベーターをつくるのと同じくらいには解決不能だと思われている予想はいくらでもあるが、よしんばそれを解いたとして、世界の姿はなにひとつ変わりそうにない。この世界が SF の世界に変わる空想の未来、そんな世界に関する妄想の中に、わたしたちの研究成果の出る幕はまったくないのだ!

 

それともまたは。この無力感は単に、わたしの想像力の欠如に過ぎないのだろうか? 世の万物は創作の種であり、なにかを創作へと昇華できないという事実は、この場合にも例外なく、わたしの無能の証明でしかないのだろうか?

 

万物をフィクションたらしめる原則に機械的に照らし合わせれば、おそらくはそういうことになろう。純粋な数学理論とて、宇宙旅行とおなじくらいに汎用的な SF の題材なのだと言われてしまえば、否定することは誰にもできまい。だが、それでも。

 

理論の織り成すフィクションに、躍動感のどうしようもなく欠けることはやはり、避けようがないのではないだろうか。フィクションにできないわけでなくとも、フィクションを語りにくい題材であることはやはり、事実なのではないだろうか。

 

だから、わたしは思うわけである。SF を地で行く分野がすこしだけ、羨ましいと。