回収不能地点にて

ずっと家にこもってペンを動かし、キーボードを叩いてわたしは生活している。ゲームと睡眠と食事と、その他文明的に生きるために不可欠なものを除けば、やっているのは研究だけだ。それも、基礎研究。なんの役にも立たないことだけをして、わたしは生きている。

 

それでも生きていけているのだから世の中とは不思議なものだ。いったい社会のどこに、わたしなんかが生活するのに必要なだけの金銭をめぐんでやる正当な理由があるのか。なにせわたしは、生産的なものはまったくなにも生み出していないのである。文字通りの机上の空論を、論文という名前でときおり電子の野に放つけれども、それは誰かの生活を豊かにするものではない。ましてや、資本主義というシステムに絡んでくる性質のものですらない。余裕がないことになっているこの世の中において、なんともまあ、不思議な話があるものだ。

 

とはいえ不思議だで終わらせるほどには、まだわたしの好奇心は衰えていない。それに金食い虫をやっていることにいまさら罪悪感を覚えるほど、わたしの正義感は強くない。幸いなことにこの世には、わたしの状況を説明することばが既にある。なんの生産性も持たないわたしが満ち足りた生活をできるという現象を、理解するための概念がある。

 

投資。インベストメント。

 

わたしたちに給料を支払ってくれる組織はたいてい国家だから、彼らを投資家と呼ぶのは一般的な用法ではない。けれどここでは、あえてそう呼ぼう。国家という投資家はわたしたちに投資をしている。いま給料として支払った金銭は、将来的な利益につながると彼らは期待している。その意味でわたしたちは、期待で飯を食っている。

 

いったいどこのどいつがそんな期待をするのか。期待される側、現場をいちばん知っている側としてはなかなか不思議なものだ。投資される側すら信じていない未来から、リターンを望むだなどとは。回収できないと分かり切っている投資のために、わざわざ財務省に頭を下げるとは。いや。こんな日記誰も読んでいないのだから、もっとあけすけに言ってしまってもかまうまい。投資家は、国は……要するに、馬鹿だ。

 

国家の中枢にいる賢いはずのひとが、そんな馬鹿な判断を現にしている。なかなか驚くべきことだけれど、起こりうることではある。どんなに賢い人間だって、集団になると馬鹿な方向に進んだりする。自分たちはとんでもなく狂ったことをやっている、誰もが内心そう気づいているのにも関わらず、集団としてはその狂った判断をし続ける。中学高校とわたしはそれなりに名の通った学校に通っていたけれど、そこでもそういうことは日常茶飯事だった。

 

だから。わたしたちが生活できている理由を知りたければまず、どうして最初にそんな狂った判断が下されたのかを知るしかあるまい。最初の投資家たちがどうして狂気に陥り、確固たる方針として受け継がれてきたのかを知るしかあるまい。その問いに関してわたしは一定の説明を与えることはできるかもしれないが……狂気を説明せよとは、なかなかにおかしな話でもある。