自分が正しいと思ってそう

だれでも思想を発信できるこの時代、だれもに炎上の可能性がある。大衆を逆なでするような思想の持ち主がみずからの思想を開陳したとき、運が悪ければ、そのひとは身の丈に合わない、とんでもない量の非難を受けることになる。

 

炎上にはさまざまなかたちがあるが、今日ではとりわけ、啓蒙思想的な発言が炎上させられる傾向にあるだろう。そういうひとを燃やすとき、ひとはきまってこう言う。「自分が正しいと思ってそう」、あるいは、「自分に知識があると思ってそう」と。

 

「正しい」「知識がある」ということば。一見すると良い意味なのだが(あるいは、良いからこそ)、もちろん相手を馬鹿にする目的で用いられている。「自分自身を正義だとか博識だとか思っている時点で、発言主の正義や博識の度合いはたかが知れている」。明文化こそされないがおそらく、こういう考えなのだろう。

 

彼らの論理には確かに、一定の説得力を認めねばなるまい。

 

「正義」の例なら、たとえばこうなる――「自分の正義を疑う習慣がなければ、自分自身が暴走したときに止められなくなる」。昨今の正義の暴走を鑑みるに、この論理は間違いなく、真実の一端を示している。「自分を博識だと認識するのはおかしい。なぜならものごとは、知れば知るほど知らぬことが増えてゆくものだからだ」――「知識」の例なら、こうなる。

 

さて。だが彼らの論理には問題がある。世の中には現実に、比較的正しいひととそうでないひとが存在する。おなじように、知識の豊かなひととそうでないひとが存在する。自分が正義や博識だという主張は、なにも絶対的な意味でそうであることを主張するわけではないのだ。比較的正義や博識に近い人物が、自らの相対的な位置を正しく認識した発言をしたければ、いったいどういうことばを使えと言うのだろう?

 

……そして、ひとを馬鹿にしたいひとにとって、こういう問題は取り組む価値のない、口うるさい他人の些細な戯言に過ぎないのである。

 

多くの場合、彼らはわたしが馬鹿にしてやりたいと思うだれかを馬鹿にしている。「自分を正しいと思ってそう」という彼らの論理にこそ共鳴しなくとも、なにか別の納得に足る理由があれば、わたしは彼らと一緒になって侮辱をはじめるだろう。理由はなんでもいい。わたしの美意識に、反するものでさえなければ。

 

「自分を正しいと思ってそう」。残念ながらわたしにとって、それは納得に足る理由ではない。納得できれば簡単なのだが、わたし自身が許してくれない。だが彼らにとって、それは十分に納得に足るだけの理由だ――だから、それで十分なのだ。

 

彼らの論理こそ、わたしは批判できる。だが馬鹿にするという彼らの選択のほうを、わたしはまったく批判する気にならない。わたしは彼らの味方で、彼らが気兼ねなく相手を馬鹿にできるのならば、それに越したことはないと思っている。ただわたしにはほんの少し、やり方にこだわりがあるだけだ。

 

「論理が間違っているなら批判を取り下げるべきだ」。きわめて高潔なその態度は、しかしながら、決して実態を反映してはいない。論理が先で批判があとである、とひとは考えがちだが、もちろんそんなことはありえない。批判したいという感情が先にあって、論理があとからつけられるのだ。

 

さて。むしろ面白いのは、こんな問いのほうだろう。それを提示して、今日は締めようと思う。

 

問い。

 

感情が論理に先立つのならば、なぜわたしたちは、わざわざ論理を用いるのだろうか?