アンチ・繊細

小説を読むようになると、自分でも知らなかった自分自身の一面に気づくことになる。

 

わたしの場合それは、人間どうしの関係性に宿る感情を、わたしが好きになれるということだった。関係性エモ……とでも呼ぶべきそれは、もちろんある種の小説の中心的な題材なわけだし、それを面白いと思うひとがいることは、それまでのわたしもよく知っていた。しかしながらわたしはそれまで、そういうのはわたし向けではないと思い込んでいた。繊細な心を持ち合わせていないわたしには、関係性エモを消化するだけのデリカシーがない、という理由でだ。

 

何本かの小説を読むと、その自己解釈が間違いであることに気づく。わたしはたしかに繊細ではないし、むしろ多分に鈍感なほうだとは思うが、鈍感なことと感情がないこととは違うのだ。というより、鈍感には鈍感なりの感情があるのだ。それは繊細でいては決してたどり着けない感情だ。誰かのことばですぐに傷ついてしまったり、自罰的になったりしてしまうひとたちには、けっしてたどり着くことのできない領域。鈍感なわたしたちは、彼らが道中で感じて足止めを食らう傷心を素通りして、その先の感情を味わうことができる。

 

そういう感情はしかしながら、しばしば世間で感情とはみなされない。小説の主人公には鈍感な人間もいて、実際にそういう感情が感情として描かれるわけだが、いわゆる「社会」の中ではそうではない。「社会」では、感情はもっとも繊細な人間に合わせる必要がある。すべてのことばで傷ついて、すべての石でけつまずくひとたちこそが、なにを感情と呼ぶのかを牛耳っている。正しい感情とはなにかを規定している。

 

繊細さをイコール感情とするその態度は、「ひとの気持ちがわかる」ということばの使われ方を見ればよくわかる。「ひとの気持ちがわかる行動」と言ったとき、それはいちばん繊細なひとを傷つけないようにする行動を意味しているからだ。たとえ世の中の大多数が歯牙にもかけないような取るに足らないことばだったとしても、それで傷つく誰かがいるなら、それは「気持ちを分かっていない」ことばになる。実際に「気持ち」が分かっていないのは、それが笑い話で済むということが理解できない、繊細なひとたちのほうなのにもかかわらず、だ。

 

そういう構造は、感情を愛することからわたしを遠ざけてきた。感情とは繊細なやつらのおままごとだと中学生の頃のわたしは思っていたし、それはまったく無理もない話だった。当時のわたしには読解力がなかったから、小説の中から感情をサルベージすることができなかった。鈍感だからこそ感じられる感情の存在に、わたしは気づいていなかった。感情というものを消化するためには繊細さを理解せねばならぬとわたしは思っていたし、繊細さを理解できないしする気もない以上、感情はわたし向けのコンテンツではないと信じ込んでいた。「ひとの気持ち」がわからない人間にはひとの気持ちは理解できないのだということを、トートロジーだと信じ込んでいた。

 

幸いなことに、いまではその認識は変わっている。傷つきやすい繊細さをわたしはいまでも理解しないけれども、それを理解しない同志はたくさんいるのだ。そしてわたしたちにはわたしたちなりのエモーションがあるのだ。それはまちがいなく尊いものだし、感情というコンテンツは、繊細でなくても面白いものなのだ。

 

そしてフィクションとはたぶん、わたしの感じられるような感情を満足させるためにある。なぜなら現実世界のほうはすでに、繊細な連中によって、すっかり支配されてしまっているからだ。