狂人への道筋

なにかの思想を語るという行為には、みずからの中でそれを反芻するという行為がかならずついて回る。ひとに教えることによって自分に技能が身につくという現象があるが、それは教えようと試みる行為によって、みずからの中の体系が再構築されるからだ。誰かに向けて自分の中のなにかを語るという行為は、その相手に与えるものの何倍も大きな影響を、ほかならぬ自分自身に与える行動だ。

 

世の中には語ることが専門のひとたちがいて、思想家などと呼ばれてよくもてはやされている。彼らは世の中に関してもっとも詳しいわけではないが、もっとも上手なことばを選んで、もっとも上手に語ることができる。彼らの言うことを聞いたひとたちは発される巧みなことばに納得し、思想家を褒めたたえ、みずからの代弁者だと考える。自分では到底到達しえないことばづかいとレトリックの力に、わたしたちは酔いしれ、変化させられる。

 

しかしながら、酔いしれているのはわたしたち一般大衆だけではない。語ることはなによりも自分自身を変えるという原則に基づけば、思想家のことばがもっとも影響を与えるのはほかならぬ思想家自身だ。彼らの発することばは巧妙で現実をよく表現していて、思想家自身にとっても魅力的なものだ。そしてだからこそ、思想家の口を突いて出る。その思想家が優秀であれば優秀であるほどに、彼らのことばのより多くの割合が、単体でひとを動かしてしまえるほどの強さを持つ。そしてそれらの強力なことばの嵐につねにさらされ続けているのは、ほかならぬ思想家自身なのだ。

 

自分自身で生み出したことばたちの圧力にさらされた思想家は、もちろん変化せずにはいられない。彼らはみずからのことばによって圧倒され、変質させられ、思想の辺境へと吹き飛ばされてしまう。彼らが飛ばされる場所に、けっして普通の人間は立ち入ることなどできない――それには極大量の強いことばの、絶え間なく吹き荒れる暴風が必要なのだから。

 

かくして一世を風靡したはずの思想家の時代は、たいていその人の死よりも早く終わる。自分自身が現世を飛び越え、思想を生み出しては影響され続けた人間にしかたどり着けない場所へとたどり着き、それを理解できる人間はだれもいないからだ。理解されなくなった思想家とは残念ながら、ただの狂人に過ぎない。思想家の仕事とは、一般的な人間に理解できることばを紡ぎ出すことなのだから。

 

では。素人思想家としてのわたしは、いつまで狂わずにいられるのだろう。

 

わたしはプロの思想家ではない。わたしのことばはきっとそう強くない。そうであればわたしは、自分自身と言うエコーチェンバーによって増幅された思想の影響をそれほど受けずに済むかもしれない。永遠の時間が経てばかならずわたしは狂うだろうが、それがわたしの物理的な死までに訪れるイベントなのかどうかは、わたしにはわからない。

 

だがあるいは、そうでないかもしれない。わたしの拙いことばでも、もしかするとわたしを狂わせるのには十分なのかもしれない。それはわたしという人間の強度にかかわる問題で、実際に狂ってみなければ、その日がくるかどうかは分からないのだ。それまでわたしは、わたしを正常だと信じているだろう。

 

……いや、わたしはわたしにとって、永久に正常であり続けるのだろう。本当に狂ってしまったら、自分が狂ってしまったことには気づかないのだから。