素人タイムリミット

新しい環境に飛び込んで、聞いて知っていただけの景色の実物を見る。これまでの自分にとっては関係のない場所、世界の誰かがよく知らないなにかをやっている場所だったところが、その日から自分の持ち場になる。これまでと違う常識、違う風土に戸惑いながら、それでもひとりの初心者として、作業を進めて自分を高める。

 

そんな時期、ひとはとても楽しい。新しいことの連続の毎日、知らなかった知識がどんどんと身についてゆく日々。新しく身につけた技また技は、これまで自分が別の環境で学んできたいろいろな技とつながってまったく新しい地平を見せる。古い知識と新しい知識。そのどちらもがなければけっして導かれえなかった、知識の合作。そしてそれは往々にして、ふたつの知識の両方があれば、ごく簡単に導かれるものでもある。

 

おそらくそういう理屈で、素人はすぐに結果を出せる。世の中を変えるのは余所者だとよく言われるけれどそれは、余所者だけが自分自身のいる環境を外から見ることができるからに他ならない。そんな余所者は、来てまだ日が浅くなければならない。その新しい環境にまだ浸かり切っておらず、別の世界の考え方がまだ色濃く残っている、その分野の素人でなければならないわけだ。

 

さて。いろいろなところで研究をしていると、素人になる機会はそれなりにある。わたしにとってはまったく新しい問題をわたしは知り、まだその問題に慣れ切っていない状態で考える。うまくいけば、割とすぐに結果が出る――その分野とわたしという存在の邂逅そのものが、必然的に導き出した結果が。かくして素人は、素人だからこそ成果を出せる。ああ研究とは、かように簡単なものか。

 

けれど。分かり切ったことだけれど、素人が知ろうと故に結果を出せるのは本当に素人でいる間だけなのだ。

 

二か月。経験上、わたしが素人でいられる期間はそれくらいだ。飛び込んでから二か月間、常識を知らないわたしはいろいろなことを試すことができる。わたしが持っているすべての道具を、新しい世界に適用しようと躍起になっていられる。次に試すことのアイデアをまだ、使い果たさずにいられる。タイムリミット、二か月。常識を探り当て、多くの行動を考える前に棄却できるようになってしまう期限。

 

そしてそれを過ぎると、わたしの発想力はぱったりと止まってしまう。

 

なにをするとどう失敗するか。成功したもののなにが良かったのか。二か月が経過し、新しい世界がわたしを受け入れてしまったあとでは、そういうことが一般常識のようにぼんやりと分かってくる。思いつくほとんどのアイデアは、すでに試して失敗したものか、あるいは成功してもう再発明する必要がなくなったもののどちらかになってしまう。飛び込んだときは肥沃だったアイデアの源泉は、もうすっかり枯れている。

 

同じ問題に長く悩み続けることは、よく研究者の美徳とされる。ひとつのことへの集中力、そして忍耐力は賞賛の的だ。けれど残念ながらわたしは、どうしてそれで結果を出せるのか分からない。二か月を超えた先に新しく見えてくる世界があることを、わたしはまだ納得できていない。