数学者気質と生活の失敗

部屋の中で物が燃えている。その横には、水の入ったバケツ。居合わせたのは三人の学者で、確か化学者と物理学者と数学者だったか。詳細は忘れたけれど、そういうジョークがある。

 

ジョークのオチは数学者にある。数学者はその場にいて、なんの行動もしない。といっても、数学者は状況を理解していないわけではない。火や水はたしかに数学的な対象ではないが、それらにいちいち定義を求めはじめたりはしない。数学者とて常識人、火は消すべきであることはちゃんとわかっているし、そのためには水をかければいいということもまた理解している。けれど常人と違うのは、彼らは理解したということにすっかり満足して、具体的な行動を取ろうという気を起こさないという点だ。

 

はじめてこのジョークを見たとき、わたしは不思議に思った。そして一瞬ののち、すごくよくできたジョークだと理解した。言われてみればたしかに、数学にはそういう部分がある。なにかが存在するということや、それを見つける手段があるということを証明して満足して、決してそのなにかを具体的に見つけてみようとはしない。

 

そんな数学者気質を、わたしも存分に受け継いでいる。そして火事を放置する馬鹿者よろしく、それはわたしの生活にも影響を与えているようだ。というのも何かの計画を立てるとき、わたしは解決策が存在するということを理解するだけで満足して、それ以上その計画の詳細を詰めようとしないようなのだ。

 

結果、なにが起こるか。電車は乗り過ごす。食事は取りそびれる。とんでもない距離を歩く羽目になる。

 

なかなかに非直感的なことだが、電車とは乗ればいいわけではない。正しい駅で正しい路線の正しい方向に乗るという難題を仮に乗り越えたとして、目的地にたどり着くためには正しい駅で降りなければいけないのだ。けれどわたしは、この路線のどこかで降りればいいということを確認して満足してしまう。結果なにが起こるかは、もう言うまでもないだろう。

 

同様にわたしは、このあたりのどこかで食事を取るという予定を立てる。どこで取るかは考えていないから、店のある区画を素通りする。何らかの手段で移動するとわたしは決めて、そして結局、徒歩以外の選択肢がなくなる。

 

考えてみればこういう態度は、数学をするときにも問題を起こしうる。論文を書くとき、わたしたちは証明を書かなければならない。証明には厳密性が必要だから、詳細を詰めなければならないのは必然だ。そしていざ詰める段になって、致命的な欠陥の存在に気づく。組み立ててきたと思っていた理論は突然、根底から瓦解する。

 

けれど数学者は、それでも数学をできている。絶対的に見てできていると言えるかはさておき、他の誰よりも数学が上手いことは事実だ。致命的な欠陥に気づいてすべてがやり直しになることは結構あるけれど、それでもなんとか、わたしたちはやっていけている。

 

その理由はきっと、数学が生活よりも簡単だからだろう。生活上でのミスには実害があるけれど、数学はいくら間違えても問題がない。なにせ数学は、どこまでいっても紙の上の問題に過ぎないのだから。