昭和の映像

我が家のテレビではよく昭和の野球の映像が流れている。何十年も経っていまだに語り継がれるシーンなのだから、なかなかにドラマ性豊かで面白いものだ。時が経つにつれて次第に圧縮されていく時代、その濃密な一コマが、十秒ほどの間に詰め込まれている。

 

そうやって選び抜かれたホームランや名守備を、しかしわたしはよく理解できない。いや、なにが起こったのかは説明されているから分かるのだけれど、選手がどのようにプレイしたのかがいまいちよく分からないのだ。バッターはバットと思わしきものをなにやら動かし、実況が叫ぶ。見えるか見えざるかの白い点が画面上をかたつき、外野席のスタンドがいびつにゆらめく。普段わたしが野球を見るときに気にしている、球種やコースや弾道といった情報は、その映像からは得られない。分かるのはただ、打ったということだけ。

 

もちろんそれは映像技術の問題だ。昔の映像は解像度が低い。そのうえ、コマ送りのようでわかりにくい。実況の声のほうはじゅうぶん聞き取れるレベルだけれど、映像のほうは、現代からすると見るに堪えない。おまけにカメラワークもいまとは微妙に異なる。

 

さて。映像が悪いということはもちろん、当時のドラマ性を傷つける部類のことではない。低いフレームレートで動く彼らが勝利したという事実は、最先端の鮮明な映像を通じて送られる今年の勝利チームがもたらしている感動となんら質的な違いはないはずだ。けれど現代から昔を見ると、その感動は割り引かれてしまっているように思える。現代の映像がどれほど鮮やかで、どれほど滑らかに動くかを知ってしまった今では。

 

現代のわたしたちの野球の見方は、きっと数十年前には考えられなかったことだ。テレビ画面の映像ではとても球種など把握できなかったに違いない時代には、投手ごとの変化球の曲がり幅を議論することなどとてもできなかったはずだ。そして未来でも同じことが起こるということはまったく想像に難くない。現代と未来を分けるものが映像の質なのか、それとも別のなにかなのかは分からないけれど、野球を見るという体験は確実に変わってゆくだろう。そして未来のある時期、いまの見方をするために撮られた名シーンの映像を見て、きっと物足りない気持ちになるのだろう。

 

それとも。平成の世の中に慣れたわたしには、もういくつになっても、平成の映像で十分なのだろうか。平成的なものの見方をすっかり身につけたばっかりに。

 

もしかすると今でも、昭和の映像に満足するひともいるかもしれない。球種もインパクトの瞬間もフォロースルーの美しさも分からない映像でも、喜んでみていられるひとはたくさんいるのかもしれない。そして数十年後、わたしはそちら側の人間になっているのかもしれない。そうだとしたら。

 

そうだとしたら、まあ、別にそれでいい。人生が楽しいなら、それに越したことはない。