憧憬

我が家のテレビではよく、昭和の野球の映像が流れている。画面は白黒だったりカラーだったりして、昭和という時代の中で技術が移り変わっていったことがよく分かる。わたしにとってはすべて生まれる前の話で、だからどうにも、昭和とは一様な、わずかに古ぼけた色で淡く塗りつぶされた時代に見える。そういう直感的な認識が間違いであることは、言われなくても理解はするのだが。

 

家電製品が三種の神器と呼ばれ豊かさの象徴だった時代は、わたしにとっては歴史の時代だ。卑弥呼邪馬台国を治め、源頼朝が平家を滅ぼし、信長や秀吉や家康が天下を目指したのに近いカテゴリーだ。それもそのはず、当時の流行りことばをわたしが知ったのは小学校の歴史の授業。流行りことばとはすぐに廃れるものだから、社会科の勉強以外の文脈でわたしは三種の神器と聞いたことがない。

 

カラーテレビは三種の神器だったか、あるいは新・三種の神器だったか。当時を生き、歴史と呼ばれるようになる前の時代の流れをその身で体験したひとびとにとって、きっとそれはとてつもなく馬鹿げた問いだ。スーパーファミコンニンテンドー DS はどちらが先だったんですか。おじいちゃんが若い頃って、アメブロとか VR チャットとかで交流してたんでしょ。わたしがうろ覚えなのは、きっとそんな感じの問い。うろ覚えとかそうじゃないとかで処理するものでは最初からなかったはずの問い。いわば、常識。

 

さて。子供にとって常識とは、大人から教わる常識だ。両親がどう考え、学校の先生がなにを当たり前だと思っているかのことだ。子供の社会とはなかなか高度に発達したものだから、そこには文化があるとは呼んでもいいだろう。けれどそこで常識的に信じられているものにつけられる名前は、けっして「常識」ではない。

 

かくして幼少期、わたしたちは歴史にさらされる。大人たちの常識をインストールするという名目で、大人たちの体験した歴史を教えられる。小さい子供とはまず常識を身につけることが至上命題だから、必然的に子供たちは、けっしてみずからが証人とはなれない時代のことを最初に学ぶことになる。その時代こそがいまは、正しい時代だから。そして真面目な子供ほどきっと、周囲の大人の期待に応えようとして、自分の時代に合わない知識を身につけようと試みるのだろう。

 

真面目な子供だったつもりはわたしにはない。それでも生まれる前を、わたしは知りたがった。その時代を実際に生きたひとの知識に絶対に追いつけないということには、ずいぶんと大きくなるまで気づかなかった。ただ生きるという経験が膨大な量の知識をくれるということを、理解できるほどまだわたしは生きていなかった。

 

いまでもまだ、昔に対するあこがれはある。生まれる前を知らないのに、それを知っていると自慢したい気持ちはある。けれどおそらく、見るなら現在のほうがいいのだということも、いまは理解しているつもりだ。