人前で野球の話をするな

「人前で政治や宗教や野球の話をするな」――。政治や宗教というセンシティブな話題に負けず劣らず野球の話も諍いの種になるという事実から作られた、既存の標語のアップデート版である。

 

意味は元の標語と変わらない。要するにひとによって意見がまるで異なる話は人前でするべきではなく、その最たるものが政治と宗教と野球だということだ。政治や宗教というどろどろとした話に野球という娯楽の話を付け加えることで少々、この格言は面白おかしくデフォルメされているわけだけれど、笑えるからと言って笑い話で済むわけではない。人間は案外、娯楽のほうこそをもっとも真面目に考えているものだ。

 

さて。もともとこの標語は野球が政治や宗教とじつは同じ構造をしているという気づきから出てきているわけだけれど、わたしの肌感覚ではもはやこれらは同一ではない。政治や宗教の話はもはや、人前でしたところで争いを生むものではないからだ。わたしたちの多くは政治にも宗教にも興味がなく、だからそんな話をされても、真っ向から自分の意見をぶつけて戦おうなどとは思わない。ただつまらないなと思って聞き流すだけだ。

 

そういう話を人前でするリスクとはだから、もはや面倒ごとを起こす可能性ではない。面倒ごとの種になるひとだと思われて、他人に敬遠されることだ。現代のわたしたちはインターネットを通じて、政治や宗教を語るうさんくさい人間をたくさん見てきている。その同類だと思われれば、単に関係を断たれる。

 

けれど面白いことに、野球はそうではない。人前で贔屓球団の話をしてはいけない理由だけは、最初からなにも変わっていない。阪神ファンと巨人ファンが飲み屋で会えば、選手の優劣をめぐって喧嘩が始まる。野球の話をするリスクとはずっとそういうリスクであり、そしてそれこそ、政治と宗教に関して例の標語がもともと指摘していたリスクそのものなのだ。

 

だからいまや、標語はこう言い換えるべきだ――人前で野球の話をするな。政治や宗教の話は……勧めないが、べつに危険ではない。日本にいる限り、政治や宗教に関する与太話がきみの身に積極的な危害を与えることはないだろう。すくなくとも、泥酔した阪神ファンに殴られるリスクに比べればかわいいものだ。かくして例の標語は、野球においてのみ意味を保った。最後に付け加えられた、ジョークとしての野球でだけ。

 

人前で野球の話をするひとは、別にうさんくさいひとではない。政治や宗教と違って野球は、それだけで関係を断ちたいと思わせるような話題ではないわけだ。政治と宗教は面倒、野球は危険。そういうバランスのもとで世の中は回っている。

 

もしかするとある時代には、政治や宗教だってそうだったのかもしれない。人前で政治や宗教の話をすることは、それだけで人間性を疑われることではなかったのかもしれない。そういう世の中のほうがいいとか言う気はさらさらないけれど、あったのかもしれない世界のひとつの形として、その可能性も心に留めておきたい。