教養力勝負

クイズ界がここ数年、盛り上がりを見せている。クイズを専門とするひとたちは、わたしが小学生のころはおそらく一介のオタクの集団に過ぎなかっただろうけれど、いまではユーチューブなどですっかり有名人だ。日本国内全体でもクイズは盛んになったのか、しっかりとクイズに取り組むクイズ番組だって大きく増えたように感じている。わたしには到底太刀打ちいかないような問題ばかり出す番組は、昔はそんなになかった気がするのに。

 

ああいう場所で活動しているひとたちは、言うなればクイズの専門家だ。彼らはクイズに真剣に取り組み、出題傾向から対策を練って勉強し、あるいは典型的なパターンを頭に叩き込む。「オーストリアの首都と言えば」と聞いたら素直にウィーンと答えるのではなく、そのあとに続く「ですが」を予想してキャンベラと答える……ということくらいはわたしも知っているけれど、きっと彼らのなかにはその手のたくさんの常識がある。彼らはクイズというものを、クイズという競技としてとらえている。

 

だがわたしたちはそんなことはしない。わたしはクイズを極めようと思っていないし、だれかと明確に競おうとも思っていない。いや、やるからにはもちろん勝ちにいくけれども、あくまでそれは身内の中で一番最初に答えたい、というくらいの話に過ぎない。クイズの大会があってもわたしは出ないし、出たら勝てるだけの努力をする気もない。

 

それでも面白いのがクイズのいいところだ。わたしたちは練習をしない、難しい漢字の読み方を蒐集しない、ボタンをはやく押すことに特化した練習もしない。それでも、答えるのは楽しい。向上心がなくとも、成長を実感することがなくとも、とにかく知識を使って勝ちに行くのが楽しいのだ。

 

そんなわたしたちにとって、クイズとは純粋な教養の勝負だ。これまでに見たもの聞いたもの、自発的に学んだものに強制的に覚え込まされたもの。競技として楽しむのならあるいは、それらの知識は体系化されてしかるべきかもしれない。効率的に学ぶためのノウハウが確立されているかもしれない。けれど練習もせず、ただ闇雲に勝ちに行っているだけのわたしたちにとって、クイズで問われるのは人生経験なのだ。これまでの人生の中で、経緯は問わず、なにを知るに至ったかなのだ。

 

素人がクイズで勝つ喜びはそういうところにある。誰かの知らないことを知っていたということは嬉しいし、それがそのために勉強したものでないのならばなおさらだ。クイズに答えることはある意味、自分の人生を肯定してくれる行為なのだ。人生のほんの一部、その知識を得るに至ったごくごく小さな部分が、きっと上手くいっていたという証明。

 

玄人になるつもりはないが、仮になったならその喜びは減るだろう。自分の人生そのものというよりは、クイズのために覚えたことを使って勝つようになるのだろう。そこにはまた違った喜びがあるには違いない。そしておそらく、たまには。

 

答えようとすることを通じて、大昔に見聞きした教養が蘇ってきたりも……きっと、するのだろう。