節穴に祝福を

たとえばどこかの性格の悪い蒐集家が、絵の描かれた画用紙の束を用意したとしよう。一枚を除くすべては取るに足らない作品で、美術学校の平均的な学生とか、無名のアマチュア絵描きとかによって描かれたものだ。それらにただの紙以上の価値はなく、誰かの家の倉庫で忘れられて眠り続けるか、あるいはすぐに可燃ごみとして燃やされていたはずの品だ。

 

しかしながらその成金の蒐集家は、歴史と芸術性を冒涜することを至上の喜びだと思っているらしい。なんと彼はその束に、最近数十億円で落札した巨匠の名作を混ぜ込んでいるのだ。そのために彼は、その資産をわざわざ額縁から出した。保存状態が悪化するのもためらわず、ほかの紙と一緒に乱暴に平積みにしている。

 

蒐集家は冒涜を愛すると同時に、もっとも無謀なギャンブラーでもあった。彼は自分が会長をしている会社の新入社員を呼びつけると、その束を見せて言った。この中からどれでも一枚、好きなものを持って帰っていいぞ、と。ご丁寧に、絵を丸めて入れるための筒すら用意して。

 

もしその新入社員に審美眼と豪胆さがあれば、きっと数十億円を筒に詰めて持って帰っただろう。あるいは名画の存在に気づきつつ、それを管理する責任を恐れて別のものを選んだかもしれない。しかしながら、その話に続きはない。そのあとどうなったかは、各々勝手に想像してほしい。

 

さて。けれどその新入社員がわたしなら、事態はきっとそうは運ばない。なぜならわたしには美術に対する審美眼がないからで、世界的な名作とアマチュアの駄作をそもそも区別できないのだ。わたしは悩んだ末に、きっと駄作を好きだと言う。心理戦を楽しみたかった蒐集家は気分を害して、予想外のところで躓くわたしを首にする。

 

似たようなことは、きっと他の分野でも起こる。わたしは音楽が分からない。工芸品の良しあしも分からないし、たぶんワインの味も分からない。素人の明らかに下手くそな絵や、音をランダムに並べた列は、さすがに名作と区別できるかもしれない。でもきっと、それ以上は無理だ。

 

けれどそれはきっと、程度の問題でもあるのだろうとも思う。素人の絵と名作を区別する能力と、曲がりなりにも画家を志したひとの絵と名作を区別することのあいだに広がっているのは、きっときわめて曖昧なグラデーションなのだ。

 

下手くそは素人にもわかる。上手さは玄人にしか分からない。素人から玄人へと連続的に繋がるグラデーションの、わたしは素人に近い位置にいる。けれどそのさらに素人側にどれくらいの色彩がひろがっているのか、素人であるわたしには判断できない。幼稚園児の絵と名作を区別できないひとも、世の中にはいるのかもしれない。

 

皮肉な見方をすれば、審美眼のないわたしは幸せ者だ。なぜならわたしは、名作でなくても満足できる人間だからだ。会長の家から駄作を持ち帰って飾り、それを見てわたしは喜ぶ。芸術が個人の幸福に資するものである以上、それはまったくすばらしい態度だ。

 

そしてきっと。どんな芸術に対しても、わたしよりもまだ幸せであれる素人がいる。そういう愚か者にわたしはきっと、惜しみない祝福を送ってあげたいと思う。