一般的正義の肖像 ①

正義ということばの中に、純粋な称賛以外の意味の色濃くなってきた現代であるが、みずからが正義でありたいという気持ちはそれでも、ひとの心の中に宿り続けているように思える。わたしは断じて正義に盲目ではないつもりだし、性善説よりはむしろ性悪説のほうを真実と思いたい性質の人間ではあるつもりだが、それでもなお、世界は正義の力で動いているように見えてしまう。とりわけ正義を、利己主義の反対として定義するならば……人間はぜんぜん利己的ではない。人類に対するわたしの数学的信念のひとつに、じゅうぶんに発達した脳はゲーム理論的な利己主義に即した行動を取るだろうというものがあるのだが、その観点からして、人類は(もちろんわたし自身も)互いに自白することを選ぶふたりの合理的な囚人たちの……、そう、まったく足元にも及んでいないように見えてしまうのだ。

 

だから皮肉なことに、正義の非合理性への皮肉は、自分自身の非合理性によって返り討ちにある。皮肉屋たるもの、論破されれば素直に負けを認めるべきであり(これも一種の正義だ)、すなわちわたしはわたしの正義感の存在を無視するわけにはいかないのだ。たしかにわたしが正義と思うものは、ほかの誰かが正義と思うものと異なるかもしれない――だがしかし、わたしにはわたしなりの正義が、望む望まざるにかかわらず存在してしまうのだ。

 

そうはいっても、わたしはわたしの正義に従っていればよいというわけではない。ひとの行動を縛るものがそのひと自身のみであることには、アナーキーという立派な名前がついており、わたしはまったく、アナーキストなどではないのだ。世の中には一般的な正義というものがたしかに存在し、世の中をそれなりにうまく回している。修辞上のあいまいさこそあるにせよ、なにを正しいと思うかという観念はわたしたちにある程度共通して刻み込まれているのだ。遺伝子、あるいは、後天的な教育によって。

 

そしてそれゆえに、正義とは、かくも胡散臭いのである。

 

わたしたちの正義にはずれがある。それは個人個人でも違うし、もちろん、一般的な正義とのあいだでもそうだ。一般的正義はまたときに、わたしたちに実現不可能なほどの高尚さを要求する――わたしたちが共通して知っているが、実のところわたしたち全員の外部に位置する理想形をだ。つまるところ一般的正義とは、ある程度うまく付き合っていかなければならないものだ。現実あるいは自分自身の正義に抵触する場合にどちらを選ぶのかは、その都度考えねばならない。

 

だからもしかすれば、一般的正義とはときに、まったく正義ではないのかもしれない。最低でも、正義ではないなにかだと呼ぶほうが健全ではある場合は、それなりにあるものと思われる。

 

そしてそのことはみんな知っているから、一般的正義に反したところで、ときには多めに見てくれるわけなのである。だからして真に一般的な悪とは、誰も多めに見てはくれないもののことだ、とも、もしかすると言えるのかもしれないわけだ。