合理原理主義者の肖像

人生が自己満足の最大化にすぎぬ以上、賢人とは、ゲーム理論的な合理主義に厳密に従う人間のことだ。少しでも人生を真面目に生きる気がある人間なら誰しも、ひとがときに冷徹さと呼んで忌避するいくつもの判断を論理性と最大利得の名のもとで執り行わねばならないし、そうしない人間は逆説的に、みずからの一度きりの人生を自発的にゴミ箱に投げ込んでいる。人生のプレイヤーであり続けようとする者にとって、敵ということばはもちろん自分以外の全存在を意味し、われわれは敵を知り、敵のとりうるすべての行動を予測し、敵は敵の利得を最大化する戦略をとると仮定したうえで、自らの行動を決めねばならない。ときに賢人も敵と協力するが、その協力関係は愛や友情といった甘えきった感情論からではなく、利害の一致という純システム的な都合によってのみ成立しなければならない。仮に両方の囚人に黙秘を選択させたければ、囚人たちの仲間意識などの理想論に頼るのではなく、繰り返しゲーム等のモデルを導入した新たなシステムを作り出さねばならない。

 

個人の利益と全体の利益はしばしば矛盾するから、すべてのエージェントが自分の利益を最大化しようとすれば、非合理的なエージェントからなる世界と比較して、世界の衰退あるいは滅亡が早まる場合もあるかもしれない。だがその場合でも、賢人は個人の利益を最大化するという原則は覆らない。もし全員が合理的に行動した結果、ゲーム理論的な均衡解が滅亡になるのならば、その世界は合理主義によって滅亡させられたのではなく、単に最初から滅ぶべきだった。あるシステムの問題点に皆が気づいているが、それを最初に言い出した人間は単に叱責され、給料を減らされるだけだというような場合、それを指摘した人間は英雄ではあるかもしれないが、馬鹿であることに疑いの余地はない。

 

さて、あなたがアネクドートの中の経済学者でないなら、そろそろこの子供じみた理論を、微笑ましさあるいは羞恥心とともに聞くようになったころだろう(なにせ、あなたも昔はこうだったのだから!)。現実の人間は非合理だから、合理主義の神であっても、非賢人の非合理な行動を見越して行動せねばならない。しかしそれは全員が賢人であれば発生しえない問題であり、すべては馬鹿が悪い(そうやって賢人ぶって、自分の利益を投げ捨ててしまえばいいさ!)。戦争も企業合併も家庭内の関係も、すべてはゲームのリアリズムによって説明されねばならない(じゃあ聞かせてもらおうか、その完璧な説明とやらを!)。個人主義という賢明さの極致に、人間不信と馬鹿が呼ぶものがあったとして、それを賢人は不信と呼んではいけない。信頼とはすなわち他人の非合理性への仮定であって、それらをすべて捨て去ることこそ、ひとが合理的であるということなのだから!(じゃあ、いますぐにそれを実践したまえ!)誰がなんと言おうと、俺は馬鹿じゃない、なぜなら俺は……俺は、完璧に正しいことしか言っていないからだ!