裏切られる愛、裏切らぬ無関心 ①

ひとがひとを愛したとて、その逆に恵まれるとは限らない――すれ違い、そして感傷。悲劇の典型例である一方通行の愛には、それだけでひとの心を深く染めるだけの浸透力がある。恋愛、師弟愛、あるいは家族愛。その種の片思いを主題にした作品は、フィクションノンフィクションの別を問わず、枚挙にいとまがない。とにかく愛とはどうにかして裏切られるものであり、そして裏切られたときこそ、最も美しく深遠な輝きを見せるものだ。

 

だが現代において、裏切られ方の中身は少々変質しているようだ。というのも、愛とは原理上、加害―被害の文脈にも当てはめ可能なものだからだ。誰かを愛するとは、つまるところ個人性への侵襲だ。逆から見れば、誰かに愛されるとはすなわち、誰にも見られずに行動する権利を侵害されること、ということになる。そして被害とは、現代において、相手を貶めるための最高の大義名分だ。

 

具体例はいくらでもあげられよう。せっかくだから、恋愛で説明しない方がいい愛について語ってみることにしよう。恋愛感情こそが至高の感情であり、他のあらゆる感情は恋の盲目さの前にすべからく霞んでしまうという恋愛至上主義的な考え方を、わたしはこの上なく忌み嫌っているのだ。

 

さて、ある高校に、度重なる不義理で有名な生徒がいたとしよう。ほとんどの教師は彼を諦めているが、ただひとりの熱血漢だけが、その将来を真剣に憂いていた。熱血教師は生徒を呼び出すと、溢れ出る愛を右手に固く握りしめ、渾身の右ストレートを彼の頬へと叩きつける。

 

するとたちまち、教師は体罰教師の烙印を押され、教育委員会か PTA か外部の自称善人たちにさんざん締め上げられたうえ、減給あるいは放逐の処分を受けることになる。

 

だが注目すべきなのは、暴力はしばしば生徒の更生にもっとも有効な手段になるということだ(ある種のひとびとが非合理にも、断固として認めたがらない事実)。そして教師がそう知っているなら、適切な行動とは間違いなく、生徒の頬に拳を見舞ってやることに違いない。愛とはつまるところ、個人が個人に向ける感情。どうしようもなく個別の、一般化不可能な感情。暴力教師はなにも、サンドバッグを求めて殴っているわけではない(場合もある)。彼について考え、彼の性格を吟味し、そのうえで向けられる最高の愛が拳だったから、(今回の設定では)そうした。

 

愛を知る者にとって、およそ現代とは生きにくい時代であろう。一方通行の愛は、単に報われぬだけでは済まされない。ラブレターの返事がもらえないのはまだ物悲しい、だが現実には外部機関を通じて、無機質な戒告書が返ってくる。叶わぬ愛の美しき悲嘆と違い、コンプライアンス違反の通達は、ただ後味が悪いだけだ。

 

そしてもちろん、最高の解決策は変わらず、誰も愛さぬことを選ぶことだ。