論理的判断とは

論理的であることはすばらしいことだと、わたしたちは教わって生きてきた。

 

知っての通り、こういう文脈で「論理的」とは「感情だけでものごとを判断しない」という意味だ。感情的な選択というのは厄介なもので、直後だけは心地よいかもしれないが、いずれ巨大な破滅がやってくるだろう。そうでなくとも非合理な判断は、のちに負債となってわたしたちの首を絞めるかもしれない。

 

そうならないために、まずは落ち着いて考えて見よ。感情が出そうとする結論が、誤りだったり非合理だったりするのであれば、そうと気づけるくらいの論理を組立てて見よ。そうすれば少なくとも、安直な破滅的選択を避けることができる。

 

さて、だが。言うは易く、行うは難し。格言とは往々にしてそうであるように、論理的であれという行動指針もまた、簡単に身につけられるものではないのだ。

 

第一に、感情を抑えきれるかという問題がある。なにかをやりたいと強く希求しているときに、使っていない棚からあえて論理を引っ張り出すことを、はたして覚えていられるだろうか。そのうえで、論理に合致しているかどうかを検討する面倒な作業に、ひとは耐えられるのだろうか。耐えられたとして、それでじぶんがやりたい何かを我慢することができるのだろうか?

 

……というのは、おそらく、感情と論理の一番典型的な対立だ。そして同時に、論理的であれという格言の成立する一番の理由だ。

 

結論から言えば、こういうことは可能である。そういう訓練を積めばいいし、わたしたちは実際、積んできた。論理が使っていない棚に入っているのであれば、その棚から論理を取り出して、よく見える位置に置いておけばいい。癖さえついてしまえば、どんな行動の前にも、理屈を考えることはできる。

 

そしてこの問題は、論理と感情の問題のうち、一番簡単なひとつに他ならない。

 

次の問題はもう少しむずかしい。論理を使うとして、それを適切に使えるかどうか、だ。論理というフィルターはなにも、出てくる結論の最適性を保証してくれるわけではない。一本の理屈の筋が通っていれば、なんでも許されてしまう。

 

最初に思いついた論理的帰結。それは間違いなく論理ではあるのだが、戦略的正しさの意味では、感情の帰結と大差ないかもしれない。多くの結論には、それを正当化する論理が存在する。仮に唾棄すべき結論だったとしても、論理性を自らに課すだけでは、採用されてしまうことだってある。

 

ではじっくり考えればいいか、といえば必ずしもそうではない。世の中には対立する論理というものがあるのだ。じっくりと考えたがゆえに、複数出てしまった結論。どちらかはより正着に近く、どちらかはより不利益に近いかもしれないが、どちらがどちらなのかについては、やはり論理では判断がつかない。そういうときわたしたちは、どちらを選べばよいのだろうか。

 

感情に聞いてみればいいのか。いや、おそらく違う。

 

論理の選択をうまくやること。これだってまた、論理的であるというスキルの一部なのだろう。