革新の相対性

五十年前、世界には今のようなインターネットがなかった。百年前、洗濯は洗濯板で行われていた。二百五十年前に鉄道はなく、産業革命以前となれば、布を織るのすら完全に手作業であった。

 

それらに比べると現代、わたしたちは便利な世界に住んでいる。いま挙げたような昔にわたしが戻ったとして、元気にやっていけるかと言えばまあ、無理だろう。そして人類が順調に発展したなら、未来人はいまのわたしたちに対し、まったく同じことを思うのであろう。そう考えれば現代のわたしたちは、とても不便な世界に生きていることになる。

 

とはいえわたしたちは現代を、便利な時代だと認識する。時代の流れ全体を俯瞰すればおそらく過渡期の一点に過ぎない現代だが、現にこの時代に生きるわたしたちにとっては、聞いたことのある中でもっとも便利な時代なのだ。これより便利な時代のことをわたしたちは妄想で語るしかなく、だから過去と違って、現代と比較して羨んだり同情したりするような対象にはならない。現代は最新であるがゆえに、現代なのである。

 

さて。いまの議論はべつに、「この」現代に限った話ではない。技術の進歩する歴史の流れのなかにそれぞれの時代を位置づければ、それらはすべて、その時点までの範囲で最高の時代なのだ。つまり産業革命以降の人類は、そのひとが生きていた時代のことをつねに、便利な時代だと認識し続けて生きていたことになる。

 

つまり逆説的には、あくまで個々人の主観的な便利さのためには、技術の革新などまったく不要である、と言うことだってできてしまう。

 

いまのわたしたちがこの世を便利だと思うのと同じくらい、過去の人類はその時代を便利だと思っている。わたしたちが現代の技術革新に加速度を感じているのと同じくらい、過去の人類も同じことを感じている。具体的な技術の内容は違えどもその感性におそらく差はなく、だから具体的な技術がなんであるかは、わたしたちの主観に影響を与えない。

 

にもかかわらず、わたしたちはなぜ革新を求め、新しい技術に喜びを覚えるのだろう?

 

技術的特異点という概念がある。機械学習の分野で言われることばで、その時点を超えた瞬間、技術の進歩はまったく違った次元の話になるという考え方だ。二百年前のひとたちが鉄道を見たようにいまのわたしたちが AI を眺める、そういった相対的な同質性はもはや成立せず、特異点以前とそれ以後で、ひとは本質的に異なる時代を認識する。

 

歴史は繰り返す。だからわたしは、本当にそんな日が来るとは思わない。けれどもし来るのであれば、それを近づけることには、たしかに絶対的な価値があると言わざるを得ないだろう。