ランダムゲームの道案内

最近たまに麻雀を打っているのだが、あれはなかなか分からないものだ。すごく抽象的に表現すれば麻雀とは何択かを選び続けるゲームだけれど、どれが正しい選択なのかはとうてい分かりそうにない。

 

もちろん、完璧に分かるわけはない。分かるならわたしはとっくにプロだ。離散的な選択を繰り返すという要素だけでできているゲームなのだから、各選択肢の価値を正確に見積もれるならすなわちわたしは最強だ。そんなおこがましいことをわたしは求めていない。やるからには強くはなりたいとはいえ、べつに最強を目指しているわけでもない。今日言いたいのはもっとレベルの低い話――つまりはすべてが終わったあとに振り返ったところで、やはり正解は分からないという話だ。

 

麻雀は確率のゲームだ。対戦が終わったあとにすべての情報を開示すれば最適な行動も導けるかもしれないが、そんな行動には意味がない。それはすべてが見えているひとにとって最適な行動にすぎないわけで、対戦中はその通りには行動できない。つまりは、結果論。わたしの上手い下手の問題ではなく、ゲームの原理の問題。

 

けれどあとから反省するとして、できることは結果論に頼るくらいだ。この選択をしたからこういう結果になった、ではこれは回避可能だったか。回避できたとして、回避するほうが統計的に得だったか。そもそも負けたのはわたしの実力のせいなのか、それとも運が悪かったのか。一度の結果を見ても、そういう問題に答えは出ない。統計的な答えを出そうにも、おなじ局面が二度現れるようなゲームではない。自分なりに局面を分類して一般的な性質を見抜こうにも、どう分類すればいいのか到底見当もつかない。分類できたとして、間違った思い込みに嵌まり込んでむしろ下手になっている可能性をわたしはどうしても否定できない。

 

それでも上手いひとはいる。彼らだってもちろん最初から上手かったわけではなく(いまのわたしより上手いことはあるだろうが)、度重なる練習と理解の末にいまの実力に達したわけだ。この手の振れ幅の大きいゲームをどうやって上達したらいいかわたしには分からないし、おそらくそんなことは誰にも分からない。けれどランダムネスの闇の中で、彼らは確実に進んできた。分からないなりに、進む方法があった。結果の指し示すすべてが曖昧なのに、自分の選択が果たして正しかったのかを確認し、ほかの選択指針を取り入れるべきかを判断してきた。そして大方において、その道筋を誤らなかった。

 

どうしてそんなことができるのか。ひとつあるとすれば、自分以外のひとのことばを聞いたことだ。

 

他人のことばは劇薬だ。誤ったふうに解釈すればドツボにはまり、我流でやっていた頃よりむしろ悪くなる。さまざまな分野でわたしはそうして足を取られ、ひとのことばを妄信しないことを覚えた。そのひとを信じていないためではなく、わたしを信じていないがために。わたしがそれをただしく解釈し、実際に適用する能力のほうを信じられないがために。

 

けれどもし正しく取り入れられれば、それはきわめて有益なものでもあるはずだ。ランダムネスの海を彷徨い進むのに必要な、何千回もの統計的な試行。そこを進んだ先人のことばをもし正しく解釈することができたのなら、わたしはその回数分の試行をバイパスできたことになる。