意見の一貫性 ①?

なんらかの問題に関する意見を表明するとき、ひとはたいてい、ただその問題のことだけを考えているわけではない。ことばに出す意見にはつねに論理が必要であり、意見を示すとはすなわち、自分の意見を正当なものとみなすためのそれなりの論理を構築するいとなみのことだ。なにかの意見を述べよと言われたとき、わたしたちに求められているのはそういう複雑かつ抽象的な行為であり……まったく断じて、目の前に置かれている「賛成」「反対」の札のどちらかを、闇雲に掲げて見せればいいというわけではない。

 

もっとも意見は、その手の二項対立に集約されがちではある。しかしながらその理由は、あくまで集計上の都合に過ぎない。意見と呼べるすべての意見は、各々まったく異なる――異なるのだが、残念ながら統計には、それらを本当に異なるものとして扱うことはできないのだ。

 

それでもやはりわたしたちは、目の前の札のどちらかを掲げなければならない。意志決定において統計の都合とはそれなりに大事なものであり、内的な論理の機微を抜きにして、わたしたちは自分の考えを捨象し、投影する必要がある。ありうる論理がいくら多様とはいえ、ありうる態度は「賛成」「反対」のふたつだけだ……許されるならあるいは、「どちらでもいい」を含めても良いが。

 

ここに一貫性の問題が生じる。わたしたちはそれぞれ微妙な意見を、「賛成」「反対」のどちらかへと投影した。「賛成」「反対」の根拠は、それぞれの論理の中に潜んでいる。そして論理とは、つねに一貫していなければならない――まったく同じ論理の成立するふたつの問題に対する賛否は、つねに等しくなければならない。

 

さて。しかしながらわたしたちは、そんなに一貫していられるだろうか。

 

ここでひとつ、断りを入れておこう。わたしはなにも、ひとに不変であれ、と言っているわけではない。時を超えてひとは変わっていくし、時が経った結果、賛成が反対に転じることもあろう。しかしながらその変化は、論理の変化に従っていなければならない。時が経って採用する論理が変わった、その帰結としての寝返りでなければ。

 

わたしたちは一貫しているか。わたしに内在する論理は、同種の問題に対して、つねに同じ答えを返すはずのものだろうか。そのようなよくできた論理を構築できるほど、わたしは賢いのだろうか? 同じ構造を持つ未知の事象、そんなものに関する想像力は、しっかりと働いているだろうか? わたしが賛成するのと同じことがらについて、わたしは賛成することができるだろうか?

 

もちろん、答えはノーだ。わたしは自分の一貫性に、そこまでの自信はない。誰も自信などないだろう。仮に自信を持って、わたしは一貫していると言えるひとがいるのであればそれは……そうだな、自らの想像力の限界を、疑うほどの想像力もない人間のことだろう。