反省文 (惰)

また会ったね。わたしだ。

 

きのうはきみに、見苦しいところを見せてしまったね。再会を祝して思い出話に花を咲かせでもすればいいところを、わたしはきみに誤解されたくない一心で、わたしの自堕落についてだけ語って帰ってしまった。

 

すまなかった。本当に、申し訳ないと思っている。

 

きみはあんなことを聞きにきたわけじゃない。それはわかってる。あんなことを五十日間も続けてなお、きみがわたしに会いに来てくれた理由は、いまのわたしにははっきりと分かる。きみはかつてのわたし、わたし自身の考えをわたし自身で語っていたわたしに、きっと会いたかったんだ。そうだろう?

 

だから、先に謝っておこう。すまない、今日も昨日と同じ話なんだ。

 

そう、きみの知っての通り、わたしには惰性だけで話を進めてしまう癖がある。そう、わたしがいまこうやって、きみが聞きたくもない反省をわざわざ滔々と語っているのも惰性だね。とにかくわたしは、話が思いつかなかったり、話を考える気がなかったら、当たり前のシーンを描写して物語を引き延ばすんだ。そうすればすくなくとも、わたしは物語を前進させた気になれるからだ。

 

物語中の時間が進んでいるなら、それは物語が進んだことになる、という理屈によってね。

 

もちろん、そんな理屈は間違ってる。それは前進じゃなくて停滞、進行ではなくて蛇足だった。わたしがやっているのは、物語の世界で発生したすべてを、まったく取捨選択することなく、ただ時系列順に並べたてただけだ。それを物語だと主張できるのであれば、そうだな、わたしの額にカメラをつけて生活すれば、撮れた映像はそのまま、映画だということになる。

 

そう。当たり前のことだけれど、妄想を物語にするのは、取捨選択なんだ。

 

なにかを説明するときにも同じことが言えるね。どうやらわたしには、説明の正確性を気にしすぎる癖があるみたいだ。きみたちに、なにかが間違って伝わってしまうことを過剰に恐れてね。

 

でも、説明っていうのは、誤解を与えないためにあるわけじゃない。理解を与えるためにあるんだ。だから、だれかのわかりやすい説明に少々の嘘やごまかしがあったとして、それはそれだけで、悪い説明ということにはならない。すくなくとも、正確性を気にしすぎて、ゲームのルールの説明のために、電話帳のようなルールブックを読み聞かせるよりはね。

 

じゃあなぜ、わたしは不正確を恐れているのか。たぶんそれは、ふだんわたしが、そういう環境にいるからだと思う。わたしのまわりの世界では、ことばという真水に垂らされた一滴の嘘が、そのことばすべてを真っ黒に染めてしまう――言い換えれば、そう信じているひとたちが、わたしのまわりの世界をかたちづくっているんだ。

 

まあ、これもわたしの被害妄想かもしれないけどね。

 

とにかく、わたしはきみに誤解されるのを恐れる必要はないだろう。なにせ、きみはわたしのまわりのひととは違うからね。だってわたしはきみに、さんざんわたしのまわりの人の悪口を言い続けてきたんだから。