夢の具体性

なんの役に立つのかわからない研究は数あれど、理論研究の役立たずは頭ひとつ抜けている。そこそこの予算を投じられていながら、わたしたちのやる研究は、世界の物質的な発展になにひとつ直接的な貢献をもたらさないからだ。理論なるものはどこまで行ってもはただの文章であり、きわめて難解なそれを理解できる同業者が読んではじめて、多少の役立たずなアイデアが浮かんでくるものにすぎないのだ。

 

これが他の分野の基礎研究だったら、話はまだ違ったかもしれない。新しい物質はすくなくとも、世界に新しい可能性を提示している。たいていの場合可能性とは新しい薬のことで、役立たずの言い訳にしてもさすがに一辺倒が過ぎるだろうと思うのだけれど、とにかく世界はひとつ、物質的豊かさを獲得している。それでよしとするかは……まあ、見るひとの感性によるだろう。

 

……いや、違わないかもしれない。新しい物質と、新しい考え方。同業者にしか取り扱えず、そして同業者であっても、どう使えばいいのかまるで分からないアウトプット。

 

まあ、いい。

 

とにかくそれでもなぜか、わたしたちは存在を許容されている。わたしたちにつく予算は減ってはいるが、ゼロになったりもしていない。

 

予算がつくということは、すなわち期待されているということだ。具体的になにを、と問われればはたと困ってしまうのだが、とにかくわたしたちがなにかの役に立つ日を夢見ている役人がいる。その夢にかこつけて、わたしたちは生きながらえている。

 

ではそれは、どういう夢なのか。

 

理論屋の常として、わたしはあいまいさが嫌いだ。夢、などというきわめてあいまいなことばでお茶を濁されれば、ついついわたしはこう反論してしまいたくなる。「リーマン予想が解けたところで、社会にどんなインパクトがあるとお思いですか。数学者は重要な予想だと思っているようですが、あなたにとって予想の解決は、どういう夢のかたちなのですか?」

 

極端な例ではある。だがもしわたしが文部科学省の役人で、財務省から予算削減の絶え間ない圧力を受けているのならば、きっと同じようなことを言うだろう。

 

では、逆に。そう言わないひとは夢というものを、どういうふうにとらえているのだろう。

 

あいまいな夢に価値はない、というこれまでの議論。わたし自身が信奉するこの論理は、裏を返せばこんなことにもなる。具体性に乏しい夢を許容できるのならば、もしかすると理論研究にも、それなりの価値を見出すことができるのかもしれない。そんなものが夢と呼べるのかはさておき、一考の余地のある論理ではあるだろう。

 

下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる。理論を含めた基礎研究は、しばしばそういう風に呼称されもする。そのことばの中に、夢らしき物語の居場所はない。ただ単に、命中率という統計的事実があるだけだ。

 

そう、統計的事実が。夢とは案外、そういうドライな話なのかもしれない。