世の中には二種類の人間がいる。創造するひとと、しないひとだ。
創造するひと。英語で言えば、クリエイター。もともとの動詞はクリエイトで、「~するひと」という接尾辞がついてクリエイター。すなわちそのまま、創造するひとだ。
動詞のクリエイトは、多くの場合目的語を取る。いわゆる、他動詞というやつだ。実際になにかを創造しているところを捕まえて、あのひとは何々を創造している、と言及する。一番普通の用法。
実際、そうでない状況をイメージするのは難しい。クリエイトを他動詞的に用いない場合、けっこう奇妙なことになってしまうのだ。すなわち、そのひとがなにをつくっているのかには興味がない。それでいて、なにかをつくっていることじたいには言及したい。
だが。動詞・クリエイトが、クリエイター、と活用した場合には。
どういうわけか、目的語のない状況も、とくに奇妙ではなくなってしまうようなのである。
クリエイター。クリエイティブ。その手の単語は、目的語のようなものを取らない。創造するひと、というラベルだけをひとに貼り付けて、わたしたちは満足してしまう。なにをつくっているかとは無関係に、ただなにかをつくっているという事実だけで、ひとを分類出来てしまうかのように。
クリエイター。その呼び名はおそらく、共通の特質が存在することを示唆している。なにかをつくるひとという、きわめて広範なひとびとに共通するなにかが。そうでないひとには、まったく存在しないらしきなにかが。
……では、それはなんだろう。なにをつくるにせよ、絶対に避けては通れない特質は。
なにかをつくりあげてゆく作業。という抽象的な概念。自動詞的なクリエイト。イメージせよと言われても、どうすればいいのかわからない。なにせ、知らされていないのだから。なにをつくるのかという、まぎれもない他動詞的な本質を。
もしかすると、単純な問題なのかもしれない。すでになにかをつくりあげたことがあるなら、クリエイター。なにかとは絵や、小説や、ゲームや、とにかくおよそクリエイティブとみなされるもの。メイクやビルドではなく、クリエイトを用いるのが適切に見えるなにか。
だが、しかし。クリエイターという単語にはもうすこし重厚な意味合いが隠れているように、わたしには思えるのである。
なにかをゼロからつくりあげること。その道中には、おそらくさまざまな困難がある。それを乗り越え、オリジナルと胸を張って言えるものをつくれれば、クリエイター。辞書通りの意味ではないかもしれない。だが、そういうイメージが染みついているのは事実だろう。
では、そのイメージに共通するかたちとはなんだろう。共通する、超克のかたちには。
具体的な困難には、おそらく共通点がない。小説家は絵の具の調合に苦心しないし、画家はことばの選択に悩まないはずだ。共通点があるなら、より抽象的な次元だろう。おそらくは、個人のメンタリティの次元。
クリエイターと呼ばれるひとに、共通するメンタル。それはなんだろう。作品を完成させるだけの忍耐か。あるいは自信か。それとも、細部へのこだわりか。
いや、おそらく違う。
作品とは誰かに見られるべきものだ。作者が誰かという問題から離れても、自立していけるものだ。クリエイターは、わたしのイメージするクリエイターは、そういうものをつくる。
だから、わたしの解釈では。
きっとクリエイターとは、自分の作品を、客観的に見られるひとなのだろう。