学習路線の明快さ

調整がすぐには結果にあらわれない分野では、経験から学ぶのは難しい。たったひとつ変えてみたことがどれくらいの効果があったのか、それを見積もるだけでもとてつもない時間がかかるし、その見積もりが正確かどうかもよく分からない。自分では前進しているつもりでもぜんぜん進んでいないかもしれないし、もしかするとその前の方がマシかもしれない。そんな状況では、とうてい自力で前になんて進めるわけがない。

 

機械学習のエージェントは、それでもそうやって学習をこなす。気の遠くなるような回数の試行をマシンパワーでぶん回して、経験のなかから少しずつ知識を獲得していく。みずからの評価関数を少しずつ更新していき、やがては強くなる。しかしながらその方法は、もちろん人間には真似できまい。機械の真似をできるほど、人間の計算資源は潤沢ではない。

 

現在のニューラルネットと違って、わたしたちは論理を理解する。未来の人工知能に対してもそうであるかは分からないけれど、少なくとも現状、論理性こそが人類と機械との違いだろう。この局面はこうだからこう考えた方がいい。そういう理解と、理解と理解を組合わせて結論を出す抽象的な能力において、まだ人類は機械に引けを取っていない。

 

さて。人生のほとんどはきっと、結果がすぐにはあらわれない難しい分野だ。靴を変えてみたら足が速くなるか。起きる時間を変えてみたら生活が充実するか。良い効果が一時的に得られたとして、それは永続的なものなのかそれとも気のせいだったのか。結論が出せない問題だとまでは言わないが、ほかのファクターから独立した結論だと主張するには少々、手間がかかる。


けれどわたしは長らく、そうではない分野ばかりに取り組んできたようだ。

 

数学やプログラミングコンテストの問題では、成功も失敗も明確だ。解ければ勝利、解けなければ敗北。目の前の問題を解くこととコンテストに勝つこととはたしかに異なるかもしれないが……まあ、大雑把には一緒だ。たいていの場合、たくさん解いたやつが勝つ。

 

そして結果は、大きく実力を反映する。成果は短期的に出る。麻雀の押し引きのように、どこかが出ればどこかが引っ込むということもない。裏目のある選択が正解になることはほとんどない。というかそもそも、選択という概念がない。解けるという結果はなにかの選択の帰結ではなく、単にそれを解ける力があったということの証明にすぎない。

 

そして負けた場合も、どうすれば勝てたのかは明確だ。勝ったひとがやったとおりにやればよかっただけだ。運が絡まないのだから、必ず勝てる。

 

そういう分野を学ぶのはすごく簡単だ。一度の経験が確固たる証拠になるからこそ、自己評価に試行回数は必要ない。だから原理上、伸びるやつはすぐ伸びる。前と後ろは明確で、だから前へと突き進むだけでいい。全員がその条件で進み続けるから、トップへの道は際限なく長くなる。人間の得意分野である抽象的思考をいかんなく発揮し、強いやつはどんどん先を理解する。

 

そして。そんな分野の明快さに慣れ切ってしまったからこそ、わたしは困っている。人生のほとんどを占める、あいまいな分野の学び方に。