時代遅れのコーパス ②

しかしながら情緒の領域では、意味の断絶は重要な問題になる。

 

たとえばある小説か漫画かなにかの中に、コロナちゃんというキャラクターが登場していたとしよう。こんな世にならなければかわいい名前だから、きっと探せばそういうキャラクターはいるはずだ。五年前、彼女は純粋にかわいかった。彼女の名前は純粋に、かわいいという印象だけを読者に与えていた。

 

けれど現在、そんなことは望むべくもない。彼女の名前を見てわたしたちはウイルスのことを連想し、その想像を思い思いの方法で処理する。たまたま名前がかぶってしまったという作者の不運に同情するひとは多いだろうし、わたしならその名前にあとから付加されてしまった意味を努めて無視しようと試みるだろう。ひとによっては現実と創作の境界があいまいで、世界の敵と同じ名前を持ってしまった彼女に対し、健全に発育できるかどうかを心配するかもしれない。とにかくひとはみなそれぞれに、彼女がコロナちゃんだと知ったときの通常の反応を取り扱おうとする。

 

そしてそれは、その作品が描かれた当時にはまったく意図されていなかった反応だ。読むという体験は、かくして歪められる。そして創作物という、読むという体験そのものを売り出す媒体において、それは無視できない傷になる。

 

似たような体験の劣化はいつも起こっている。作品が「色褪せる」という現象がその最大の例だろう。どんな作品も、それが描かれた時代背景から独立ではいられない。作者が時代背景そのものを書こうとしたわけでなくても、どこかには現れてしまう。その背景が時代遅れになり、背後からにじみだしてくるその時代の固有性がもはや過去のものとなったとき、体験は損なわれる。

 

ことばの変化による体験の劣化は、それに比べれば小さな変化かもしれない。そのことばに関わる部分以外をとってみれば、作品はまだ健康そのものだからだ。けれど同時に、これほどにまで急速かつ簡単に起こる変化もなかなかないと思われる。

 

月が綺麗ですねとでも訳しておきなさい、と漱石は言った。実際には言っていないとは聞くけれど、そんなことはどうでもいい。真贋を見極めるということに関しては、情緒の無関係な領域に任せておけばいい。ことばの変化を無視できる領域に任せておけばいい。

 

月が綺麗ですねということばは変質した。その伝承が真実かどうかには関係なく、伝承が存在するそのことによって、純粋に月が綺麗であるという意味では受け取られなくなった。そしていくら伝承の信憑性を否定したところで、一度変えられたことばが戻ってくることはない。情緒の領域に真贋の話を持ち込んでも、また新しい意味が付加されるだけだ。

 

ことばに新しい意味を付け加えるのは簡単だ。誰かが使い、ある程度流行すればいい。けれど意味を削除したければ、時間の流れに任せるほかはない。使うひとがいなくなってはじめて意味は消える。

 

情緒の無関係な領域ではたいてい、同じことばが同じ意味で使われ続ける。たまに変わるときも、人間がその変化をコントロールしている。そしておそらく、情緒の領域の意味が現れてから消えるまでの間、ことばは大抵意味を保つ。

 

だからもしかすると。ある種のことばは時代とともに、学術的に定義された意味のまわりをゆらゆらと揺れ続けるのかもしれない。太陽の周りを、コロナが揺れ続けているように。