蹂躙される新旧

新しいものと古いものがせめぎあって、どちらがよりよいのかに関して平行線の議論を繰り広げ続けている構図は、具体的な対象を変えながらいつの世にも存在している。最近だとたとえば、現金とキャッシュレス決済の対比だろうか。互いにみずからの美点を主張し、互いの欠点を言い募り、そして双方ともまったく相手の話に耳を傾けるつもりはない。

 

新しいものを支持している側はもちろん、みずからの最終的な勝利を確信している。新しいものがつねに勝つという世の中の真理を味方につけて、いけいけどんどんの攻勢を仕掛ける。彼らはいつも、なぜひとが古いものにしがみつくのかを理解できないでいる。いや正確に言えば、古いものを支持するひとはほんとうに古いものが真に優れていると考えているわけではなく、単に彼らが変化を嫌うあまり、新しいものを検討してみようとすらしないのだと考えている。新しいものを新しいという理由だけで拒み、慣れ親しんだ不便さに拘泥し続けているのだと理解している。

 

他方、古い側には実績がある。これまで長年にわたり使われてきたという事実は、その他の有象無象に比べてじゅうぶんに優れていたという証明になるわけだ。今回出てきた新しいものは、たしかにこれまでの競合相手に比べれば少しタフかもしれない。けれどもそれが、現行体制の支配を脅かすほど強いとは到底思えない。おまけに古い側には、それを使ってきた人々の肌感覚の力がある。古いものにあって新しいものにない重要なものを、彼らはみずからの経験からいとも簡単に見つけることができるのだ。

 

さて。互いが相手の話を聞く気がない以上、決着は歴史に委ねられることになる。そろばんと電卓では電卓が勝利し、わたしの小さい頃にはまだ近所にそろばん教室なるものがあったとはいえ、今時そろばんなどもう聞いたことがない。最近ではもう電卓すらスマートフォンにとって代わられて、そろそろ息ができなくなってくる頃合いだ。紙の本と電子書籍は議論が出尽くしたのか戦いをやめ、お互いに長所があるという妥協点で落ち着いたように見える。現金とキャッシュレス、物理鍵とスマートロックは……まだまだ戦いの最中だ。

 

戦いは対称にも見えるが、これらはすべて新しいもののための戦いだ。古いものの牙城に、新しく便利なものが土足で踏み込んでゆく。新しいものが欲しているのは市民権であり、古きを滅することでは必ずしもない。そうして事実、市民権を得られるものもあれば、その勢いで古いものをすっかり滅ぼしてしまうものだってある。

 

そしてときに、戦いのさなかにより新しいものが現れ、新しいものだけを蹂躙してしまうことだってある。

 

電子辞書は死んだ。紙の辞書は電子辞書と戦っている最中だったけれど、競合相手が倒れたので生き延びた。正確性だとかマニアックな情報だとかを求めるのなら、紙の辞書。日常の調べものなら、辞書以外のあらゆる用途に使える端末を使えばいい。この死にざまは残酷だが、ある意味では滑稽だった。古きを叩く立場にいたものが、新しいものにつぶされたのだ。

 

歴史とは予測不能だ。あとから見れば、電子辞書とはひとつの袋小路に見えるだろう。デジタル化の過渡期に生まれた、単一目的の不器用な端末として。けれど当事者として、わたしたちは本気で議論をしていた。紙の辞書が生き残るのか、電子辞書がとってかわるのかについて。

 

いま議論している内容のいくつかも、きっとそのように滅びるだろう。どれがそうなるかはもちろん予測不能だが、どれがそうなるのかを想像してみるのは、結構面白いかもしれない。