建設的な議論、という宗教

建設的な議論には勝ち負けなどないのだ、というのがわたしたちの一般的な見解である。本来的には議論とはお互いの意見をすり合わせ、自分になかった考え方を取り入れて新たな見解を築くためにおこなう行為であって、けっして相手を打ち負かして、自分の言うことを聞かせるためのものではない。真摯な議論に論破は存在せず……そして真逆なことに、自分の意見がまったく変わらないということもまた、ありえない。

 

もちろん、これは理想論だ。理想論に過ぎない……と言ってしまえば、すべてのひとがこういう議論を目指しているなかでも実現はむずかしい、といった印象を与えてしまいがちだが、とにかく現実の議論はそうはなっていない。言語能力やプライドの問題でそうできない場合もあるし、もう一方では、わざと議論を不毛なものにする陰謀が働いていることもある。

 

アカデミックの場では、おそらくこの理想は共有されてはいるだろう。たまには自説を強硬に曲げない頑固者もいるが、そういうひとはすくなくとも、正義にはならない。正義ではないだれかを排除する自浄作用がアカデミアに働いているか……と言われるとよくわからないが、どちらにせよ個人のレヴェルでは、嫌われる傾向にはあるはずだ。新たな実験や誰かの説に応じて自説を転換しただれかを、わたしたちはけっして、恥ずべき人間だとは考えない。本人にとってそれは自分の人生の否定ではあるだろうが、社会的にはけっして、敗者をこえるなにかにはならないはずだ。

 

さて。だが世の中で目標とされる議論がつねに建設的な議論なのかといえば、かならずしもそうとは言い切れないように、わたしには思える。

 

国会の討論を見てみよう。各党にはそれぞれ固有の公約があり、政治的な意見がある。彼らはそれをぶつけ合い、けっして互いに妥協しない。彼らの議論はつねに平行線をたどる。彼らの目が、議論の平行線の遠近法的な行先に見据えるものは……けっして党派を超え、互いが手に手を取り合って共有する、輝かしい自国の未来像ではない。

 

そういう不毛な姿はわたしたちに、政治なるものに対するもどかしい反感を覚えさせる。議論の理想に、その建設的な帰結に彼らは向かう気がないのではないか、とわたしたちは思う。だが考えてみれば、そうなるのは当たり前だ。政策を掲げて当選した国民の手前、かれらはみずからの意見を曲げることができないのだから。

 

建設的な議論への妄信に従って、じっさいに国会議員たちが、意見を変えうるタイプの議論をなしたと仮定してみよう。お互いへのリスペクトに満ちた彼らは、そのときどきの論理によって柔軟に主張を変える。柔軟すぎるがゆえに、国民はだれも、議員がなにを言い出すかを予測できない。党の中で意見は割れ、その場はみな思い思いの納得に至り、そして意見を異にする一部の国民は、だれを信頼すればいいのか分からなくなる。

 

熱心に国会中継を見る層にとっては、もしかするとそれでも良いのかもしれない。だがおそらく、そういう状況よりはまだ、平行線が不毛に引かれ続けるほうがマシではないか。そう、わたしは思う。