議論の嘘の拒否権は

世の中のほとんどの議論は、まったく自由な議論ではない。国会の演説でも企業の商談でもなんでもそうだと思うが、議論とはその場にいる当人がみな納得すればよいといった性質のものではない。参加者とは組織の先兵にすぎない――各々はそれぞれ守るべき主張をもっていて、その主張の出どころはかれら自身ではなく、かれらのバックにいる何らかの組織、あるいは大衆の思惑なはずだ。

 

だから先兵たちには、ある程度みずからを滅することが求められている。目標は納得ではなく勝利であり、たとえ分が悪いと思っても、決してその場で白旗を挙げてしまってはならないのだ。先兵たちの双肩にはかれら自身の尊厳以上のなにかがかかっており、かれら自身の尊厳は、肩に乗る荷物をすっかりおろしてしまっていい理由にはならない。相手の先兵も同じ立場にいることを知っていてなお、互いの境遇を慰め合うために、彼らだけの内心によって仲良く建設的な結論を決めてしまうことは、残念ながらあってはならない。

 

しかしながらそうはいっても、尊厳は消えてなくならない。あくまでロール・プレイングの一貫とは分かっていても、それでも発言したくない内容はれっきとして存在している。悪くないのに謝るのはいいだろう。相手を気持ちよくさせるためだけにおべっかを使うのも、まあいいかもしれない。できることをできないと言うのもいい。だが自分自身に嘘をつくのは耐えられない。自分自身の利益のためですらないのに、自分が嘘だと分かっていることを言って、そしてそのことばが蝕んでゆくみずからをただ、眺めているのは。

 

みずからとその組織とを切り分けられるのは、おそらく組織人の美徳のひとつだ。自分自身への執着は構わないとしても、それが組織のことに顔を出すようではいけない。だが自分の口から出ることばには、どうにも切り分けられない生々しさがある。どんなことであれいったんことばにしてしまったなら、それが自分自身になってしまうかのような恐怖がある。ことばとは覚醒剤のようなものだとわたしたちは感じている。ほら、口に出してみようよ。簡単だよ、そしてダメだと思ったら、いつでもやめられるんだよ……

 

信念とはきっと、新しいことばの常習性にノーを突き付けることだ。自らの意見に反する主張をしないこと。べつの宗教の神への信仰を口にしないこと。自分で満足していない商品を、良いものだと言って売り出さないこと。状況がどうあれ、下ネタを言わないこと。これらはすべて口先だけの行為で、自分ではそう分かっている。相手だってきっと、そのことばがあくまでロール・プレイングの範疇に属することを分かっていてくれている。誰かからの信頼が傷つく心配はない。それでも、わたしたちは言えない。

 

それが美しく気高いことなのか、それともひとの弱みなのかは、あえて語ろうとはないことにしよう。その話題はひとの権利に関する議論を引き起こすし……そして権利に関わる問題に、自由な議論のされたためしなどないのだから。