天真爛漫な天才児

AI が人間と会話する時代は現実にはまだ訪れてはいないが、創作の中ではすでにありふれた情景だ。ハード SF に分類される作品ならもちろんのこと、多少の近未来を扱っただけの作品でだって人工知能は当たり前のようにひとと会話する。ことばを話したり人間と対等に振舞ったりするということの意味を特に考えなくても、AI の登場人物はひとりのキャラクターとして成立している。

 

そういう作品では、AI はだいたい人間のように振る舞う。たぐいまれな記憶力など、ところどころ人間とかけ離れた能力を持っていることはあるけれど、大抵のケースでは人間と区別がつかない。ほかの登場人物も AI を人間のように扱うし、AI の側もそれを受け入れる。そういう意味で、AI とは発展した機械というよりむしろ人間の延長である。

 

知能と呼べるものを獲得した AI が本当にそうやって振る舞うのかは分からない。けれど多くの作品では、そんなことを真面目に議論しても仕方がない。そういう作品の主題は AI の正体についてではないわけで、知能の哲学の問題に深入りするのは一部の SF に任せておけばいいわけだ。AI とは、機械の得意なこともできる人間。たいていの場合、それで十分だ。

 

さて。ひとりの登場人物として AI を見たとき、彼らの性格には明確な傾向がある。彼らは頭が良く(機械とは頭のいいものだ)、常に冷静に行動する(人間と違って機械には感情がない)。問題には誰よりも真摯に取り組み、過剰とも言えるほど具体的な分析を返す。彼らはときに「やりすぎる」ーー機械というのは、命じられれば常識外のことでも一切躊躇しない。そしてなにより、彼らは百パーセントの善意ですべてを行う。

 

一言で言えば、彼らは天真爛漫な天才児なのだ。それがわたしたちの考える、「人間に近づいた AI」の姿なのだ。

 

では。逆に、「AI に近い人間」はどういうものだろう。

 

合理的。非常識。冷静。これらの資質は、人間らしい AI でも AI らしい人間でも変わらない。けれどそれらの形質は、美点ではなく欠点として語られる。天真爛漫な AI にとっては、人の心がわからないところだって可愛らしさのひとつだ。けれど人の心のわからない人間に対するのは、単に不快なだけ。人間に人間味のあるのは最低条件だ。

 

AI と対等に会話する未来が仮に実現するとしよう。そしてそのときの AI が、わたしたちが想定している通りに天真爛漫だとしよう。そのときわたしたちは、彼らを可愛いと思って友達になるだろうか。それとも融通の利かない不愉快なやつだと感じて敬遠するだろうか?

 

まあ、相手によるのだろう。ひとにはひとの好き嫌いがあり、そして AI が人間の延長である以上、AI の好き嫌いだって発生するはずだ。