反逆的洞察

昔の小説を読んでいるとよく、男女の違いについて論じている箇所がある。多くの場合そういう議論は、男性から見て女性というものが同じ人間でありながら、そのじついかに大きく異なるのかについての話だ。女性というものはこれこれこういうことをものすごく気にするけれど別のこういうことには驚くほど無頓着だとか、一見して分かり合えたかのように錯覚することもあるけれど実のところ、物事を判断する基準からなにから一番深いところで男性とは全然違う存在なのだとか、とにかくそういう議論が物語の中で展開される。

 

その手の議論は必ずしも小説の主題ではないのだが、それでも筆者の深い洞察に基づいていることは間違いない。男女の差異をことさらに強調するのは現代の基準からすれば古臭い考え方だけれど、当時の基準はそうではないから、彼らは決して過去とか規範とかに拘泥していたわけではない。彼らは当時の世の中を真剣に観察し、その裏にあるだろう考え方に思いを巡らせた。そして男女の差異という問題について、もっとも純粋と思われるかたちの結論を出したわけだ。

 

さて。現代でももちろん、そういう洞察は可能だ。そして現代の男女の立ち位置の相対関係は過去のそれとは違うから、現代の人間が真剣に男女の違いについて考えて書けば、過去には得られようのなかった発見が得られるはずだ。実際にそういうことを書いている人間はごまんといて、社会科学の研究から恋愛指南に至るまで、議論は各界に溢れている。この現代においても、男女の差異という問題は、依然として人々の興味の対象であり続けている。

 

だが、しかし。現代におけるその手の議論にはひとつ、過去にはなかったファクターが潜んでいる。ある種の反権力性とも呼べる、新しいファクターが。昔の小説の時代とは異なり現代社会では、男女に本来差異などないという原則が大きな影響力を持っている。さすれば男女の差異を語る行為は自動的に、世の原則に真っ向から逆らう行為としての性質を帯びてしまうわけだ。

 

現代人のうち、昔の作家のようにみずから観察と洞察を進めて文章の形にできるほどの頭脳を持つ人間は、間違いなくその構造を理解している。彼らが考えているとき、彼らは同時に、その考えが多分に反権力性を帯びていると認識している。そのことは間違いなく、洞察の内容に影響を与える。権力に逆らうのだから、それなりの大義や葛藤や証拠や度胸が必要になる。それが好影響なのか悪影響なのかはさておきわたしたちは、同一性の原則がなかった時代のプリミティブさには戻れない。

 

もちろんこの問題は、世の中の針を巻き戻せと主張するに足るほどに重要な問題なわけではない。男女評が純粋さを失ったという問題は社会全体から見れば些細な問題だから、世の中が良い方に進んでいるにしろ悪い方に進んでいるにしろ、その流れを止めるだけの強さを持たない。だから他の多くの事柄と同じように、男女評の中身も、社会変革に煽られるがままに変えられてゆく。

 

というわけで、まあ。せっかくそのことに気づいたのだからわたしは、ここで哀悼の意を表明しておくことにしよう。過去に戻りたいと思うわけではない。けれど過去を惜しむことくらいは、してもいいはずだ。