非真摯のススメ

なぜひとを殺してはならないのかと聞いてくるやつらをわたしたちはバカにする。けれど別に、わたしたちは殺人がいけない理由を分かっているわけではないし、殺人は一向に構わないと考えているわけでもない。そういう質問は中学生がするものだと相場が決まっているが、別に高校生になったからといって解決する疑問ではない。

 

もっとも人生経験は、その問いにある意味での「答える」だけの態度を身につけさせてくれる。つまりは論点のすり替えることに対して、年相応の能力が身につくということだ。そんな人々はつまり、こういう風に答えることになる。「そんなバカな問いに、俺たちは答えるつもりはない。だいいち、答えを与えたところでなにになるんだ。殺してもいいと分かれば、お前は実際にひとを殺すのか? 違うだろ。じゃあどうして答えを知る必要がある?」

 

もちろんこれは、答えをはぐらかす躱し手にすぎない。この答えを聞いた中学生は、依然としてもやもやとしたものを抱えながら押し黙り、大人への反感をさらに強めるだろう。というのも、中学生は哲学的な一般論の話をしたかったのに、大人はそれを個人の道徳性の話へとずらしてしまっているのだ。「殺さない」と答えれば「じゃあいいじゃないか」と返され、「殺す」と答える度胸は中学生にはない。どう転んでも不利にしかならない二者択一。無知をはぐらかす、老獪な大人の技法。大人は真摯ではなく、それゆえに嫌われる。

 

もっとも真摯さだけが美徳ではない。むしろこの点に関して言えば大人が真摯でないわけではなく、中学生が真摯すぎると言ったほうが正確だろう。世の中は曖昧で、身近なことであってもとうていすべては理解できない。理解できないことは理解できないと認め、理解せずにごまかすことを覚えるということが、いわゆる「大人になる」ということのひとつの側面だ。

 

理解できないことを理解しようとしてはならない。語り得ぬことには、沈黙せねばならない。

 

このことばの使い方がこれで正しいのかどうか、わたしはよく知らない。いや。おそらくは間違っているが、それがどう間違っているのかを知るに至る哲学をおそらくわたしは理解できない。だからこそ、わたしたちはそのことばを知りながら、その詳細を知らない。分からないと知ったうえで使うという傲慢さも、分からないから使わないという謙虚さも、どちらも真摯でないという点には変わりない。

 

好奇心はすばらしいものだ。ふとした興味は人生を豊かにしてくれる。しかしながら、なんでもかんでも興味を持てばいいというわけでもない。自分の疑問に真摯であることよりも、その疑問が解決可能かどうかという点のほうをわたしは重視したいと思っている。