初心者の通る道

ものごとを始めるには現代はいい時代だ。それなりの人口のいる分野であれば、そのなかには必ず人口を増やしたいと思っているひとたちがいて、記事や動画を通じて初心者の参入障壁を下げるためのコンテンツを提供してくれている。初心者の立場に立ってみれば(そういう親切なひとたちの想定している通りの初心者であれば、という意味だが)、ただ彼らの親切に乗っかって、見よう見まねで手を動かしてみればいい。

 

けれどどうやら、わたしはそういう参入方法を潔しとしないみたいだ。もちろん初心者だからそのものごとに関する情報は欲しいのだけれど、どうすれば手っ取り早く勝てるかとかどうすれば最短距離で特定の地点まで行けるかとかそういう情報が欲しいわけではない。欲しいのはその仕様に関する情報、つまり何をすればどうなるかの情報であって、だからどうすればいいかは自分で考えたいのだ。そのせいで回り道をするぶんには、別に構わない。

 

というわけで、わたしは先人たちの敷いてくれたレールの上を走らない。たとえるなら、先人たちの集めてくれた知識という資材は惜しみなく使うけれど、目的地へ行く方法までをも外注したくはないのだ。それはきっと、意地でしかないのだろう。手を動かさないと見えてこないものがあるとか、答えだけを覚えると認識が凝り固まって自由な発想を失うとか、そういう言い訳は確かにできるけれども。

 

さて。自分なりの自由な発想でわたしはものごとを続けるけれど、その発想はまず、先にその道を歩んだものの発想には及ばない。何人ものひとが整備したレールがいかに洗練されているか、続ければ続けるほどにひしひしと感じる。わたしはわたしなりにゴールへとたどり着く道筋を見つけるけれど、その道筋が既存のレールより優れているところなどひとつもない。詳しいひとたちが何人も寄って考えてつくりあげた道筋は、つねに考えうる限り最高のものなのだ。

 

そうしてわたしは結局、わたしの粗悪な発想にしがみつくのをやめて先人たちの道に従う。

 

そうすることに悔しさはある。けれど初心者の頃よりはだいぶ軽減された悔しさだ。自分の道を諦めたときわたしは、先人たちの道がどう優れているのかを理解している。なにが何のために必要で代替手段ではどういう問題があるのか、説明できるようになっている。それならもう、わたしが先人たちの側に立ったと言っても過言ではないのではなかろうか? もし親切な先人などおらず、誰もが自分の技術を秘匿する世の中であれば、きっとわたしはその境地にたどり着けていたはずではないか? そう考えるから、悔しさも薄れてくるわけだ。

 

紹介されている初心者用の道筋が、いかによくできているかを実感すること。わたしにとって、理解するとはそういうことだ。そしてほかの誰もが最初に通るその道を、ずいぶんと経ってから通ったとき、わたしは初心者でなくなるのだろう。