帰国

日本に帰ってきた。ひとりで海外を旅するのは初めてだったが、とりあえずまあ、無事に終わった。

 

とはいえ、そう深く安堵するような感じでもない。というのもドイツは安全なところで、四六時中気を張り詰めていなければならないということは全然なかったからだ。日本語が通じないことと物価が高いことを除いて、日本にいるときと同じような生活で大丈夫だった。食べ物の味にもう少しレパートリーがあれば、しばらくは住んでも大丈夫かもしれない。

 

さて。海外行きがだいたい二年半ぶりである以上、帰国というイベントもまた二年半ぶりだということになる。帰りの飛行機が無事に飛んでくれることを祈るのも、最後の飛行機に乗り込んだときに機内で聞こえる日本語アナウンスの温かさも、不安になるくらい簡単な入国審査も税関審査の黄色い紙も、全部が全部久しぶりだ。もう何度も経験していることだからさすがにそれほどの感慨はないけれど、それでもやはり、若干の高揚を覚える。


そして家についたとたん、どっと疲れが出る。

 

泊まっていたホテルから、自分の家。その旅路のスケールの変化に、わたしはいつも不思議な気持ちになる。ホテルから数百メートルを歩いて停留所に向かい、数キロメートルをバスに乗って空港へ行く。そして数百キロメートルの国内線に乗ったかと思えば、次には地球を三分の一周。成田か羽田についたら今度は、数十キロを電車に乗って最寄り駅へ。そして最後には一キロ前後を歩いて、我が家の自室にたどり着く。スケールを縦軸にするなら、旅路はまるで紡錘形をしている。その紡錘の両方の端がしっかりと目的地どうしを結んでいることがどうしてか不思議で、わたしは思わずくらりとする。

 

きっとその不思議さの正体は、世界を股にかけるということのあまりの手軽さにある。地球を三分の一周した先に飛ぶのに、わたしはただ十数時間座っているだけでいいのだ。近郊電車の数十キロや新幹線の数百キロならもう慣れたし、それで目的地についても不思議には思わない。けれど飛行機の一万キロは、まだまだ不思議だ。その間に世界じゅうのさまざまな文化圏の上を素通りしているとあっては、なおさら。

 

海外というものは特別なものだ、幼少期のわたしはそう思っていた。大学生になり、海外に行く用事とは思いのほか簡単に発生するのだということを体感してからでも、その特別さは変わらない。そして依然として特別なままに、よく行くようになった。海外に、帰国にわたしは慣れた。けれどいくらパスポートにハンコが増えようとも、海外は特別なものであり続ける。

 

まあ、それくらいがちょうどいいのかもしれない。海外行きのたいていは用事だから、自分では行先を選べない。そしてそれはドイツほど安全な所ばかりではないのだ。