通常性バイアス

観光も終え、そろそろ帰国だ。

 

分かっていたことだが、ドイツでは誰もマスクなどしていない。ベルリンの街中でマスクをしているひとを探すのは、日本でマスクをしていないひとを探す以上に難しいだろう。それくらい、皆昔通りにしている。

 

もっとも例外はある。電車やバスなどの公共交通機関ではマスクが義務付けられていて、どこから出してきたのか、実際に大部分のひとが律儀にそれに従っている。規則があればきちんと従うというゲルマン気質を、なかなかその点には感じる。

 

さて。わたし自身は外でもだいたいマスクをつけていたのだが、なにかそれは、日本でマスクをすることとは違う体験だった。わたしはきっと浮いていただろうし、売店のおばちゃんにはきっとやけに心配性な奴だと思われていただろうけれど、まあそういうことはどうでもいい。なにか、わたしはただ惰性でマスクをしているだけで、その気になればいくらでも外して問題がないような、そんな気がしてきたのだ。

 

まあ、ある意味ではもちろんその感覚は正しい。マスクを外していることはここではルールにもマナーにも違反しないわけで、つまり社会性を保つという意味では、マスクはまったくしなくて構わない。しかし日本にいるときには、社会性以外の大義名分があったのではなかったか。白い目で見られないということ以外に、わたしたちには目的があってマスクをしていたわけではなかったか。

 

不思議なのは、感染を防ぐべきだとか自分が感染しているかもしれないからほかの人にうつすリスクを避けるべきだとかそういった感覚が、ここではまったく消え失せてしまっていたことだ。

 

もしかすると、それはわたしの特殊な状況に関係しているのかもしれない。日本を出る二週間前にコロナウイルスに感染し、完治したあとに出国したわたしは、いわば対コロナでは最強の状態にある。だからまったく、感染のリスクなど怖くない。それに帰国時の検査も不要になったから、仮に最強の免疫を乗り越えてウイルスが増殖したとしても、とりあえず日本に帰ることはできる。

 

けれど、それだけとも思えない。わたしはよく、自分がマスクをしていないことに気づいて慌てる夢を見る。日本でマスクをしていないひとを見ると、本能的に怖がるように訓練されている。しかしここでは、マスクをせずに大声で喋っている大量のひとを見ても、その本能はまったく働かなかったのだ。彼らが怖いとも、不潔だとも、危険だとも感じないのだ。

 

なにを普通だと考えるのかは、周りがどうであるのかに依存する。二年と八ヶ月の期間を日本で過ごしながら、誰もが素顔で歩く世の中を全くおかしく感じなかったのは多分そのせいだ。周りが誰もマスクなどつけていない世の中にいれば、自然とそれを普通だと思い込むものだ。そのことをわたしは、身をもって感じた。

 

日本に帰れば、きっとわたしは元に戻るのだろう。日本に少しだけいる、マスクをつけずに街を歩く人々を、また怖いと思うのだろう。その何十倍もの素顔に、ドイツで触れたのにもかかわらず。リスクという意味では、こちらの方がはるかに高いにもかかわらず。

 

まあ、でも。もし皆がこうであれば、日本の新しい常識も案外、すぐに瓦解するのかもしれない。ひとたびマスクをしないひとが増え始めれば、もう誰もそれを怖いとは思わなくなる。