求道の到達点

人生はあまりに短く、なにかを真の意味で極めることはできない。どんな道にだって例外なく、幾多の挫折を乗り越えてその道を探求し続ける玄人がいて、彼らは先人のおらぬ無人の荒野を、行く先も分からず、しかし確固たる足取りで探究している。彼らを突き動かすのはひとえに尽きることのない疑問の力であり、なにかを始めて数か月のうちにもれなく訪れる自称・万能の時期の存在を鑑みれば、そういう疑問が尽きぬことこそが素人と玄人を峻別する最初の関門だと言えるかもしれない。いったんその関門を突破し、そして目の前に現れるあまりに巨大な世界の暴力の前でなお目の前のほんの小さな疑問を解消しようという気力を喪わなければ、以後疑問それ自体が新たな疑問を呼び、自分の知識は絶対的に拡張され続けるのと同時に、疑問全体と相対的に比較してみれば、むしろ縮小され続ける。言うなれば成長とは、自己の巨大化が矮小化を導くという錯綜した過程の中で、それでも矮小化を続けることを選ぶという、皮肉で矛盾した旅路のことかもしれない。

 

冷静になってみればわれわれは、成長が結局のところ、好奇心以外の何事も満足しないことに気づくだろう。意地悪な言い方をすれば求道者たちは、刹那的な疑問を解消せずにいられないという短絡的な衝動によって、つかの間の問題解決の興奮と引き換えに世界の中での自分の地位をむしろ低下させ続ける、常習的な負のスパイラルに陥っていると考えることもできる。彼らは成長という同じ過ちを愚直に繰り返す――まるでどこかで疑問が収斂し、見るべき世界がいつか縮小に転ずると信じているかのように。あるいは、目の前の問題の解決を信条としながら、みずからが底なし沼に溺れているという明白な問題からだけは、必死で目を背け続けようとしているかのように。

 

だが忘れてはならないのは、求道者の物語において、溺死とは最高の結末だということだ。道から逃れられぬということは、ついにみずからが道と一体化したことの証左なのだから。

 

さて、昔はそんな矛盾した人生に憧れていた身とはいえ、わたしの死因はどうやら、溺死にはなりそうにない。これまでの半生の経験から、わたしはわたしが、最初に決めたある程度の目標さえ達成してしまえば、広大な疑問の平原を前に躊躇なく回れ右できる、あるいはしてしまう人間だと知っているからだ。求道者は衝動に従い、わたしは理性に従う。求道者は飽きず、わたしは飽きる。万能の時期を超え、世界の片鱗を目にし、目の前の探究の衝動に従おうと思えば従えるのだと世界に言い放ってやることは、求道者にとってはまごうこと無きスタートラインで、そしてわたしにとってはゴールラインなのだ。