ニーマルニーイチ、振り返りの時期

年の、瀬である。

 

とはいっても、今日が何の変哲もない、二日後にはすでに忘れている一日であることは疑いようもない。インターネットによく生息する、特別とされる日が特別でないことを必死で主張するあまりかえってその日を特別にしてしまう人間(例えば日付を約分して、二分の一や七分の一にするような奴らのことだ!)にわたしはなりたくはないから、今日という日の普遍性をことさらに強調したりはしないのだけれど、とはいえ、本当になにもないのだから仕方がない。今日も、日記に記すべきことはなにもない、くだらない一日だった。

 

さて、年の瀬と言えば一年の振り返りである。そもそも年の切れ目とは人間が適当に定めた必然性に欠けるものであり……などとわたしは言うつもりはないし、その定期的な回顧の慣習に、特に異議を唱えるつもりもない。とはいえ、わたしは慣習に従うためだけに年始に目標を立てたりはしないし、やはり普通の一日だったような気がする去年の年始などすでに忘却の彼方にあるから、一年を振り返ろうにも、どこまでが去年でどこからが今年だったのか、さっぱり思い出せない。

 

だがとりあえず、今日が何の変哲もない一日であるのと同様、今年がほとんど変わったところのない一年だったことは確かだ。それこそ数年後のわたしが、二十四歳の一年を思い出せと言われれば、わたしはまず年号を思い出し、令和三年の個人的及び社会的な事件のリストを流し読みして、そのどれもわたしに関係こそすれ、大した洞察も影響も与えなかったことを確認するのだろう。忘れ去られる運命の一年を過ごしたことを恥じるほどわたしは若くないし、忘れまいという意志を持つほどの執着をわたしは持ち合わせていないし、来年こそは忘れられない一年にしようという向上心だってないし、そしてその向上心なしでは人生は営めぬと考えるほど、わたしは悲観主義者でもない。

 

さて、とはいえそれは、わたしの不変性を意味しない――変わる意志のあるなしによらず、人間は変化を避けられないからだ。わたしの考え方は変わった、将来像も変わった、実績は増えた。死の間際に振り返ったとき、わたしが今年を転機だとは考えないだろうが、だからといって、今年がわたしの成長あるいは退化に寄与しなかったわけではない。

 

そしてもしかすると、その変化はむしろ、大きいのかもしれない。

 

何の変哲もない一年だったがゆえに、今年をいちばん特徴づけるものは、この日記そのものだろう。わたしは今年のかなりの時間を、この読者数人の文章をしたためるために費やした。それを有意義と呼ぶのは簡単な欺瞞だ――ひとの不変性は必然なのに、なぜだかひとは、変化の理由を自分の意思に紐づけようとするから。だが継続的に書くことが、絶え間なく自己認識を言語化し、客観的に観察して更新するというスパイラルが、変化を加速させるのは事実だろう。それが毒か薬か、そんなことは分からないし、考える意味もないだろうけど。

 

というわけで、今年を振り返るなら、それは「書いた一年」ということになるだろう。書くことがただのランダムウォークの加速である以上、わたしが何を想い、何を書いたかに大した意味はない。だがそれでも、書いたという客観的な事実だけは、確実に、わたしの変化に貢献したと言えるだろう。