バタフライ・ワールド

わたしたち個々人にとって、世界のほとんどはなんの関係もないことだ。世界を比較的小さくすることについて人間は多大なる努力を費やし、実際にそれはある程度の成功を収めたわけだが、それでも現代のわたしたちにとって、地球の裏側はまだ真に身近ではない。あるいは人類は電波と宇宙技術を駆使し、世界上のさまざまな領域を内包した巨大なネットワークをつくりあげたが、世界は隣人の問題が直接わたしたちに影響するほどに複雑に絡み合っているわけでもない。

 

もちろん、いくつかの問題はわたしたちに間接的な影響を与える。遠く離れた国の政治は、たしかにわたしたちの頭上に爆弾を炸裂させることこそないが、身近ないくつかの商品の値上げという形でかかわってくる。数百キロメートルの向こうにある公園の遊具が事故を起こし、それに子供が巻き込まれれば、わたしたちが常連としている公園は地方行政の事なかれ主義を経由して作り替えられることになる。だがそれらはバタフライ・エフェクト、遠く離れた蝶の羽ばたきが台風を巻き起こすことと、話のスケールとしては大きく変わらないはずだ。一応の因果が説明できるという違いこそあるが、べつにそれが何か、重要な違いを生み出すものだとも思えない。その因果はまた、わたしたちの与り知らないところで発生しているからだ。

 

であれば世界とは本来、まったく知る必要のないものだということになる。天気予報に蝶の羽ばたきを使うやつはいないのだ。南国の蝶が一匹羽ばたこうがどうでもよく、そして世界の逆側で誰がなにをしようが、それはわたしたちに推し量れるようなことではない。世界とは存在すらしなくていいものであり……そしてそれが本当に架空のものだったとして、わたしたちの一切勘づかないものであるはずだ。

 

しかしながらわたしたちは世界を知りたがる。身近でない世界自体に存在意義はなく、だからそれを知っておくことは輪をかけて無意味で、そしてそれでも、わたしたちは世界への興味を失わない。知的好奇心というやつによって、だ。つまるところそれに意味があるかとは無関係に、世界とは面白いものであり、いちばん精巧なフィクションであるというわけだ。世界に存在意義があるとすれば、それはわたしたちと未来永劫にわたって決して関わることのない同胞をはぐくんでいるからではない。単に、臨場感があるからだ。

 

というわけで、理想の世界とは面白い世界だ。理想のニュースとは、わたしたちがまだ考えたことがないのにもかかわらず、異様にリアルだと感じさせてくれるものだ。あるいは起承転結がはっきりしていて、物事がすべてあるべきとおりの滑稽さを保っている、とにかくへんてこな事件だ。それらを作り出すのはいい仕事だし……そしてたまには、偶然からも発生する。世界のそのほかの部分はすべて、その手の偶然を引き起こすために採取された、無数の失敗したサンプルだ。

 

……そうでないとつまらないから、そういうことにしておくのがいちばんいい。