初心

わたしが研究を始めてそろそろ五年が経とうとしている。初心忘るるべからずとはよく言ったもので、この頃になると、だんだん自分がなぜこんな人生を志したのか、なかなかよくわからなくなってくる。だから今日は、ちょうど書くこともないことだし、わたしがなぜ研究を始め、博士課程に進もうと思ったのか、思い出してみることにしよう。

 

誰しもがそうであるように、五年前、わたしを支配していたのは漠然とした将来への不安だった。就職や独り立ちという多大なる困難に立ち向かう運命を前にしつつ、未来へと広がっている可能性は依然として無限のままで、それでいてわたしには特に、可能性を何か一つに絞り込むための機会も、理由もなかった。プログラミングコンテストでそれなりの成績を収めていた都合上、運命という惰性に身を任せれば、わたしは技術者か、研究者になるはずだ。だがその具体的な姿は見えないし、具体的でないがゆえに、どれも魅力的には見えなかった。

 

とはいえ、教養という無駄の大海を漂っていればよかった前期課程の日々と違って、専門課程のつまらない授業を受け続ける日々だけは、わたしの居場所ではないと思われた。だからわたしは、まわりより一足早く、研究を始めることにした。

 

軌道に乗ってくると、研究は楽しかった。若さとは不思議なもので、これまで自分が価値を認識してこなかったものでも、作れると嬉しいものである。つまり何が言いたいのかというと、研究を始めるまでわたしは論文などというものに親しんでこなかったのにも関わらず、自分の数学的考察が論文になったことを喜んだ、というわけだ。

 

とはいえ、それは半分以上、先生のおかげだ。わたしは問題を解き、解法を伝えた。そして先生がそれを、論文のかたちにまとめ上げてくれた。当時のわたしには到底不可能な作業だ――わたしは、論文とはなんなのか、全く分かっていなかったのだから。

 

だからわたしは当座の目標を、論文を書けるようになることに定めることを決めた。繰り返すが、わたしが特に親しんでこなかった媒体を、だ。先生に手取り足取り教わりながら、わたしは論文を書いた。「研究の方向性を定めよ」という声も各所からたくさんいただいたが、それに従おうとするとまったく手が動かなくなったから、わたしはそれは諦めて、まずは数を書いて慣れることを計画した。

 

そしておそらく、その計画は、着実に進行している。そしてそれゆえに、わたしはあることを直視せざるを得なくなった。

 

論文は、つまらないということにだ。

 

イントロダクションで語られる研究の動機。メインパートの、証明の詳細部分。結論部分で語られることもある、研究の行く末。そのすべてがクソ真面目で、機械的なパラグラフ・ライティングで書かれており、そして英語だ。そもそもわたしの興味は、あくまでわたしが問題を解くという経験にあるのであって、ほかの誰かの知見を受容するという勉強作業にはなかった。わたしが研究をするのは楽しい、だが同じ研究を他人がやったとして、それはちょうど、誰かがペンシルパズルを解くさまを、横で黙って眺めているのに等しいのだ。

 

研究が論文を生産する作業である以上、わたしはわたしが面白くないと思うものを生産する。問題を解くという娯楽を正当化するための必要経費として、わたしは果たして、論文を書き続けられるだろうか? それとも、べつのもっとお手軽な娯楽に流れるという、合理的判断をするのだろうか?

 

現時点では、それはわからない。おそらく、これから二年のうちに判断することになるだろう。幸いなことに、博士号を取るための実績は足りそうだ。実績への焦りがないのであれば、博士課程は、折り合いをつけるための期間の長さとして、おそらく最適だろう。