マイナスサムゲーム

明るい未来とか形容されるものは、きっとだれかの屍の上に成り立っている。

 

現代とは末法の世だとわたしたちは思っている。マクロな世の中は確実に滅びに向かっているとみな察していて、最後のときがいつになるかは分からないにせよ、それが遠くない将来に訪れると理解している。そして自分たちが健康に生きているうちだけでも、なんとか世界が持ってくれればと祈っている。

 

わたしたちはみな世界を泥船だと知っているが、それでもしがみつかざるを得ない。というのも、世界とはすべてだからだ。世界には無数の穴が空いていて、そこからいろいろなものが漏れ出してきているけれど、かといって泥船の外側に海はなく、ただ無限の奈落が広がるのみだ。

 

そんな世の中で、幸福の総和はマイナスだ。強者が弱者を駆逐するゼロサムゲームですら世界はなく、強者は自分の持ち場を維持することによって弱者を滅ぼす。そんな殺伐として閉塞感の中、全員がおててをつないで仲良く勝利するなんてことはあり得ない。もちろん、未来の事情を考えるなどもってのほかだ。

 

さて。それでも未来を考えたければ、策はないわけではない。マクロな世の中は確実に滅ぶけれども、ミクロな世の中に限ればそうではなく、つかの間の安泰を得られるかもしれない場所だって世界にはある。成長産業とか言われているのがそういう場所で、現代なら IT とかその手の分野だ。そういう分野はきっと、沈みかけた船のあちこちから泥をかき集めて、素焼きにして自分の床を補強している。選択と集中、マイナスサムとはそういうことだ。

 

だれしももちろん、世界そのものより自分の身のほうが可愛い。世界は滅びると書いたが別に世界のすべてが同時に滅びるわけではないから、そういうミクロな生き残りを目指すのは間違いなく正当な戦略だ。プラスサムの世の中なのであればマクロな成長を目指せただろうが、マイナスサムなのだから仕方がない。どこかにボロが出ると分かっているなら、それは自分のところにではない方がいい。

 

世は諸行無常。そうしたミクロな成長も、もちろんいつかは滅びる。全体を捨てて一箇所を救うのは、もしかすると世界という船の寿命を縮めるかもしれない。しかしながら、ひとの世は儚いもの。わたしたちが短い一生を終えるまで、自分たちの持ち場が持ってくれればよい。そしてそんな刹那的な態度には、一定の戦略的正当性がある。分野の盛衰のスパンとは、ちょうど一生とおなじくらいの長さなのだ。

 

ミクロに見れば、明るい未来。それはマクロな大勢の屍の上に成り立っている。けれどそれは、普通にしていては滅んでしまう人々のせめてもの工夫だ。工夫しないよりも工夫した方がずっといいから、屍の生成速度を速めている。どうせ死ぬ世界なのだ。このさい、どうでもいいじゃないか。

 

人類が滅びる頃の世界を、わたしは夢想する。最後の世代はきっと、ほとんど点のようになったミクロな世界で、奈落におびえてただ生きている。その中でつぶし合いをできるほどの人数はもうなく、ただ身を寄せ合って、工夫のしようがないことに絶望している。そして、そして……

 

人間には尊厳というものがある。頭上に隕石でも落ちて、そこらで全部おしまいになるのがきっと、いちばん人道的な結末だろう。