お絵描きをする AI は、去年のあのブレイクスルーのあと間もなくして、人類にとっての具体的な脅威となった。そうするための方法は、ほとんど自明だったからだ。

 

月並みな言いかたをすれば、「AI が人類の仕事を奪う」。そんな世の中をもたらすために、やつらはなんの工夫もする必要がなかった。やつらは成果として一枚絵を出してきて、それは一枚絵を必要とするたくさんの状況で、人間による作品を扱うのとまったく同じように扱うことができる。結果、これまでの世の中が人間のイラストレーターに依頼していた作業を、やつらはそっくりそのまま代替することができる。

 

では文章ではどうだろう。わたしたちは大規模言語モデルに大きな可能性を感じている、文章執筆の代替という役割はもちろんのこと、そういう目の前のタスクをはるかに飛び越えて、言語理解や自由意志といった雄大で哲学的で、人類のアイデンティティにすらかかわる問いの解明にすらも。だがそういう未来視をいったん忘れて、いまの言語モデルにこなせている社会的役割を――いったいどの「人間の仕事を奪」えるのかを――考えてみれば、わたしたちはすぐにこう気づくだろう。やつらは大した役には立たず、あくまでこれから花開くはずの希望の蕾という以上の、なにものにもまだなれてはいないのだと。

 

にもかかわらず人類は、やつらに脅威を感じるらしい。具体的な破滅の姿はいまだほとんど見えず、多少の性能向上で奪われる職もほとんどない。あるとしてそれは翻訳家くらいだが、その翻訳家というのはむしろこれまで滅びる滅びると言われ続けながらもゾンビのように生き延び続けてきた職業であり、脅威がひとつ増えたところで、そんなものはべつに通常営業である。

 

それでも大富豪は、社会を壊さないために言語モデルの開発を停止させようと躍起になる。実際に及ぼしている脅威の大きさで言えば、世のイラストレーターの食い扶持を奪い、ファッションモデルなどの業界を大きく縮小させようとし、著作権関連のあらゆる問題を引き起こしている、お絵描き AI のほうが何倍も大きいのにもかかわらず。

 

大規模言語モデルなるものの、使いかたは自明ではない。小説を書かせようにもいまいちで、やつらが作り上げたプロットが、真に面白くあったためしはない。俳句に関してはあのざまだ。業務のメールに余計な修飾語を付け加える仕事だけはやたらと上手いが、メールを書くだけの仕事というものが存在しない以上、それは人類の仕事を助けるだけであって、奪いはしない。

 

絵を描くだけの仕事は存在するから AI はその仕事を置き換える。文章を書くだけの仕事も存在し、それはなかなか置き換えられそうにないが、近い将来、置き換えられるのだと仮定してみよう。小説家が滅び、コピーライターが滅び、シナリオライターが滅びたとしよう。それがいったい、イラストレーターとファッションモデルが滅びることに比べ、どれほど大きな損失になるというのだ?

 

それでもやつらを怖いと思うのであれば、その不安の根拠を、わたしに聞かせて欲しい。