近未来の粗悪な模倣品

近未来を感じさせる技術とは、えてして不完全なものだ。それらはいま現在はたいして使い物にはならず、とても限られた用途にしか使われていないけれど、発展した先にある未来には大きな期待を寄せられている。不完全さを克服したそれらの技術が、世界を自由自在に駆け巡る様子をわたしたちは夢想する。秘めたるその実力が、遺憾無く発揮された世界を。

 

逆説的に言えば、近未来とは不完全の埋め合わせだ。現在存在する技術から簡単に想像できるけれどもまだ実現されていないなにかが、すべてある世界こそが近未来なのだ。自動運転車が滑るように滞りなく走る街。ひとと自在に会話する AI。網膜に投射された、現実のリアルタイムタグ付け。それらは突拍子も無い妄想ということは断じてなく、現状存在する技術の健全な進化先として極めて自然に想像できるものだ。現在それが存在していないということにわたしたちはみな気づいており、技術が目指すべき方向であることをみな知っている。その不在は未知なる世界の可能性ではなく、想像もつかないほど素敵な未来ではなく、むしろ人類が克服すべき明確な課題として、技術の不完全性として扱われるわけだ。

 

さて。そういう技術はしかしながら、すこぶるウケがいい。いや、だから、と言うべきか。というのも、近未来とは誰にでも想像できる割に、すこぶる面白いのだ。すでにあるものを見てなにが足りないのかを考えるのは、全く新しいなにかを考えるよりはるかに簡単だ。そんな社会でどんな問題が起こるのかだって、現在をそのまま延長すれば分かるのだ。

 

というわけでたくさんのひとが、近未来的な技術の進歩の一歩一歩をもてはやす。

 

わたしの身に染み付いたミーハー嫌いは、そんな人々の輪に加わることを潔しとしない。潔しとしないからと言って加わらないわけでもないのだが、とにかく潔しとはしない。近未来を近未来として想像して楽しみはするけれど、その技術を実際に使って、日常生活の一部に取り込んでやろうとは思わない。なぜならそれは不完全だからだ。現在を便利にするためにそれらは存在しているわけではなく、未来への期待を共有するためだけに、時期早尚なものを無理矢理に採用しているだけだからだ。

 

新しい技術の多くを、わたしは不便だと思う。たとえばスマートロックよりも物理的な鍵のほうを便利だと考えるように、使い慣れた従来の方法のほうを好む。新しい技術は実際にたいていが不便で、未来のまがい物を先取りしようというミーハーな好奇心がなければ、わざわざ乗り換えるほどのものではない。その事実も、にもかかわらず新技術が売り出される理由も知っているから、わたしは近未来をわざわざ採用しない。というか、期待を馬鹿にして遠ざける。

 

そうして未来を遠ざけた結果、わたしは古い人間になる。不便だと思っていたものにひとびとは慣れ、社会はそれを前提に再構築される。わたしがその技術を採用しない理由である不完全さはいまだに克服される気配がなく、だが世界はその不完全を受け入れて進んでゆく。近未来は依然として近未来であるままに、その劣化品が現在になる。

 

世代間対立とはおそらく、そうやって作られてゆく。わたしが音声認識を不完全な技術だと思うのと同じように、世の中にはコンピュータを、夢を見るためだけに使われている不便な技術だと思っているひとがいるのだろう。郵便という便利なシステムがあるのに、なぜわざわざメールなどという不便な夢に社会を委ねる必要があるのか、と。世界を SF にするのではなく、その粗悪な模倣品にするためになぜ、わたしたちが変わらなければならないのだろうかと。

 

そしてわたしは新しいものを嫌う、典型的な老害になる。