不気味な単純さの解析

人間という対象が面白くありつづけられる理由が、人間精神の複雑性にあることは言うまでもない。ときと場合によってさまざまな異なる感情を持つ人間は、そのときどきによってさまざまな行動をして、そのいくつかがひとを驚かせる。いくらそのひとのことを理解していようと、次に起こるであろうことを完全に予測するのは不可能で、いつまでたっても一向に相手をエミュレートしきることはできない。にもかかわらずひとの中には一定の一貫性があって、それぞれの行動にはいつも、そのひとがそのひとであるといううっすらとした感覚が漂っている。

 

さて。けれどわたしたちはまた、人間の複雑さに耐えられない。予測不能なものとはたしかに興味をそそる対象ではあるが、同時にストレスの発生源でもあるわけだ。だからこそひとはひとをカテゴライズしたり、性格を十分な観察なしに決めつけたりする。長い時間を一緒に過ごし、ストレスの発生源によりなりやすい配偶者相手などの場合はときに、ひとは不必要なまでに細かいルールを作って、相手の行動を縛り付けて安心しようとする。

 

けれどもいちばん困るのが、複雑なのが自分自身である場合だ。いや、正確に言おう。自分自身とはつねに複雑なもので、それをもっともよく分かっているのもまた自分自身なはずなのだが、そのことに面白さではなく恐怖を感じてしまう場合にわたしたちは困るわけだ。

 

もしわたしたちに自分を客観視するだけの知性がなければ、何も問題はない。そうであればひと自分自身が複雑であることを理解できないばかりか、そもそも自分に興味を抱くことすらできないからだ。自分とはあくまで世界とインタラクトするハコであって、入力と出力のペアのことに過ぎない。ブラックボックスたる自分の中で何が起こっていようが、それは自分の関知するところではない。

 

そういう風に見えるひとが一定数いることは認めよう。そういうひとはまあ、そのままブラックボックスとして生きていていただけばよろしい。けれど幸か不幸か、わたしたちの一部はそうではない。自分というハコの中身をわたしたちは見ることができるし、それは面白いと同時に恐ろしいことだ。

 

けっこうな数の人間は、その面白さを理解しないし、その恐ろしさには耐えられない。けれどそうするだけの知能はあるから、自分の複雑性が恐ろしくなる。自分が何をしでかすか分からないという恐怖のために、過剰なまでの一貫性を自分に求める。そしてときに、既存の思想のフレームワークに自分自身を一体化させる。

 

そういうひとは一見して、組織や立場上の見解をただ述べ続けているだけだ。発言はすべて教科書通りで、そのひとというものがまるで見えてこない。そんなひとを見てわたしたちは、だから疑問に思う。このひとには本当に、人間的な感情があるのだろうか、と。

 

……というのが、そんな不気味なひとたちに関するわたしなりの説明だ。この説明は合っているかもしれないし、全然間違っているかもしれない。ひとによっては正しいかもしれないし、そうでないかもしれない。当事者に聞いたらたぶん否定されるだろうけれど、もしかすると肯定されるかもしれない。それは分からないけれど、まあいい。

 

人間とは理解できないものだし、それはわたし以外から見ても同じだ。どうせ誰にも分からないのなら、好き勝手解釈してよかろう。