滅亡食欲 ①

世界が滅びるからって、そう都合よく腹は減らない。

 

昔の映画のキャッチコピーは、世界が滅ぼうとも変わらないものがひとつだけあるだとか大っぴらにのたまって、模範解答はいつも愛である。どうしたらこれほどまでに正反対ことを、いけしゃあしゃあと吹聴して恥ずかしく思わないのかとは思うけれど、そうだったものはそうだったのだから仕方がない。この時代の読者であればだれもが知っているとおり世の中のほとんどすべては世界が滅ぼうとも変わらないものでできており、そしてだれもが身をもって体験しているとおり、愛とは数少ない例外のひとつである。

 

人間の生理現象ももちろん、世界の滅亡とは無関係に発生するものだ。明日のこの時間にはすでに小惑星が落ちてきていて、全人類の肉体が跡形もなく蒸発するとあっても、紙の端で手を切ればやっぱり痛い。これから受精する卵子にはもはや世界に産まれ落ちるだけの十分な時間がないと分かっていたとして、女性にはやっぱり生理は来る。

 

とはいえやっぱり世界には、愛以外にもいくつか変化した箇所がある。まず、旅行の需要が増えた。需要が増えても急に交通網が発達したりはしないので、飛行機も特急列車もたちまち満員になった。次のシーズンが来ないと分かっているから、シーズンオフとかいう概念は無視された。

 

景気は史上最高と言ってよかった。とある投資家いわく(滅亡の直前にもマネーゲームに勤しむ奴はいるのだ!)、いまはもうなにをやっても儲かってしまうから、腕を見せる機会がなくてつまらないらしい。詐欺師にとっても状況は同じで、これまでなら決してカモれなかった相手がぽんぽんと金を出してくるせいで、張り合いがないらしい。

 

そんなことだから。初夏の微風に揺れるこの公園で、体重百四十キロの巨漢である佐藤が滝のように脂汗を流しながら、小学校以来じつに三十年ぶりとなるランニングに勤しんでいるのもまた、世界が滅びるせいだ、と言ってもいいのかもしれない。

 

ことの発端は一か月前に遡る。

 

高級料亭の電話は、どこもかしこもパンクしていた。もちろん、死ぬ前になにか美味しいものを食べたいと考えた人々が、手当たり次第に予約を試みたからである。悲鳴を上げる電話番たちの声に行政が動いた。予約を抽選制にしたのである。

 

滅亡を間近に控えてもなお、行政は機能していた。公務員はちゃんと登庁していたし、指示通りに仕事をこなしていた。だが世界が滅亡するせいか、仕事内容は雑だった。

 

そのずさんさの恩恵を最大限に受けたのがこの佐藤である。かねてより食をこよなく愛し、市内すべての料亭の予約に応募した彼のもとに、大量の通知はがきが届く。本来は最大でもひとり一箇所しか当たらないはずの抽選が、公務員の手違いからか、すべて当選したのである。滅亡前日のこの日には、十二か所の予約。

 

かつて早食いで名をはせた佐藤にとって、時間は問題ではない。だが彼は所詮百四十キロ、人間二、三人分の代謝を支えられるくらいの胃袋しか持ち合わせていなかった。かくして彼は腹を減らすため、巨体にむち打ち、金輪際関わらない十二歳の自分が誓ったはずの運動に手を付けたのである。