針先の向こうの夢

技術というヴェールは広漠として、とらえどころのない閉塞感でわたしたちを包んでいる。ひとが到達できる限界がどこにありそしてどのようにひとを押し返すのかを知ろうとわたしたちはもがき、けれどその両手はつねに空を切る。その緞帳はとてつもなく細かな多孔質の繊維でできていて、先へ進もうと努力するにつれて、可能と不可能の境界は繊細で微妙な問題になる。

 

そんな微細な境界をしつこく突っついている連中のことを、俗に研究者と呼ぶ。細かな繊維のどこが柔らかくてどこが硬いのか、すなわちなにが解決可能でなにが不可能なのか、彼らは執拗に探り続ける。そしてわずかな繊維の取るに足らない一片をもって、新しい成果だと呼ぶわけである。

 

ところが世の中には、境界を針で削り出すのとはまったく違うタイプのイベントが起こる。針を突き立てているうちに、そこらへん一帯の繊維がほつれ、大穴をあけることがあるのだ。繊維の一辺などそこでは文字通り塵にひとしく、重機が投入されて限界は崩れる。そして針先の努力を嘲笑うかのように、広大な空間がその先に開ける。

 

その空間は夢で満たされている。すくなくとも、それが掘り出された直後は。針で境界をつっついているときには思いもよらなかったことが、いまやありありと想像できる。新しい土地にどんな建物を建てればいいのかは、その土地を見れば瞭然だ。

 

技術に関する人間の想像力とはおそらく、そんなミーハーなかたちをしている。新しい技術が開発され、実際にそれを目の当たりにしてはじめて、ひとはその行く末を議論できるわけだ。開発される前に議論していたひとだっていないこともないし、そのひとたちの想像力は間違いなく素晴らしい。けれどその他のほとんどのひとにとって、技術こそが想像力の道標なのだ。その逆ではなく。

 

さて。いかに研究者が頑固だといえども、目の前の重機には敵うまい。すぐとなりに広がっている夢の世界を無視して、孤独に針を突き立て続けられる人間は珍しいはずだ。かくいうわたしもそんな付和雷同なひとりで、新技術という夢を見れば否応なしにいろいろと想像してしまう。穴が空く前に穴の先を見据えているべきわたしは、そうしてその他の大勢になる。

 

考えてみれば、わたしは穴の先を予測したことがない。いや、正確に言おう。わたしは自分がつついている穴の先に広がっているかもしれない世界を、魅力的だと感じたことがないのだ。隣に実際に広がっている空間をわたしはたしかに魅力的だと思うけれど、自分の目の前の空間はそうではない。

 

おそらくそれは、わたしの想像力が欠如しているせいだろう。けれどそうでない可能性にも、わたしは薄々気づいている。わたしがつついている、この理論という名の境界の裏にはそもそも、夢など隠れていないのかもしれない。そしてわたしは無為な針先を通じて、そのことをはっきりと知っているのかもしれない。

 

理論が発展すると、世界にどんな夢が実現されるのか。されないまでも、どういう可能性があるのか。発展の先にあるものが魅力的だとは、わたしにはどうも思えない。誰もが気になっている未解決問題に証明が与えられて、わずかばかりの賞金が誰かの手に入って、それでいったいなにが起こる?

 

わたしには理論が向いているとわたしは思っている。針先で境界を削る仕事に意味があるかはさておき、ある程度得意な仕事だとは思っている。客観的にも、それをわたしは証明してきたつもりだ。けれどその先に夢を見られるかどうかという点に関して言えばどうやら、わたしは少々ずれた方向を削っているみたいだ。