勧悪懲善志向

わたしたちは小さい頃、きっとたくさんの物語を見せられたはずだ。そしてその多くは、典型的な勧善懲悪もののストーリーに従っていたはずだ。

 

たとえば幼少期、アンパンマンを観ずに育った子供はまずいないだろう。あれはまごうこと無き勧善懲悪で、アンパンマンとその仲間たちは絶対的な正義であり、そしてバイキンマンの一味は常に倒される悪なわけだ。バイキンマンが悪たるゆえんはひとを困らせようとするからであり、いかに彼が可愛げのあるキャラクターだとはいえ、彼の味方をする正当な理由はない。そして彼を倒す行為は、弱きものを助ける絶対的な正義である。

 

少し歳を取れば、たとえばハリウッドのヒロイックな映画を観るようになる。わたしたちの世代で言えば……そうだな。ダイ・ハードとかだろうか。詳細なストーリーは忘れてしまったけれど、それらの映画の多くには共通するパターンがあった。正義が巨悪に立ち向かい、最終的に正義が勝つ。

 

しかしながらその手の映画を、わたしは純粋に楽しめなかった。というのも、正義よりもむしろ悪のほうに共感してしまうからだ。ああいう映画の正義の味方は、たいてい小さな力しか持っていない。主人公本人が屈強だったり、謎のパワースーツの力を借りたりしていることはあるかもしれないが、彼らには組織力も計画性もない。財力だってない場合があるし、それになにより、世界の現状を維持すること以外の大義名分がない。

 

対して悪役は多くを持っている。彼らには目的があり、執念がある。世界を変えようという意志の力があり、それをするための設備も財力もある。望んだ世界を実現するための、長年にわたる忍耐と努力がある。生身の人間の真っ向勝負では太刀打ちが行かないほどの、巨大な力がある。

 

わたしは意志のある存在が好きだ。終盤に悪役の語る、歪んでいると形容される大義が好きだ。そして何より、悪の大義は否定できない。悪を悪として成立させるためには、誰もが考えはするけれど実行には移さない、倫理的ではないが論理的なゴールが必要だからだ。そう、悪は正義より論理的なのだ!

 

それなのに崇高なる悪は、最後には倒されてしまう。行き当たりばったりの正義の、勇気と名付けられた無謀によって。そんな理不尽が、創作の中にまかり通ってたまるだろうか?

 

わたしはきっと、世界は自然の摂理に従っていて欲しいと思っている。強いものは常に勝ち、弱いものは負けて欲しいと思っている。そしてたゆまぬ意志と目的は、感情を排した冷静な論理は、みずからの強さをさらに増幅させるものであってほしいと思っている。

 

きっと、わたしは少数派なのだろう。世の中の多くは論理を嫌い、情熱が悪を打ち破るさまに興奮するのだろう。それは仕方のないことだ。けれど。

 

悪はもう少し共感できない悪であってくれたらいいのに、とわたしは思う。