釣り師への称賛

レスバトルに勝ちたければ、たいていいつでも方法はある。ほとんどのことは、それなりに正当化のしようがあるからだ。

 

それを実践している人間は実際にいる。どう見ても釣りに違いないアカウントを彼らは作って、いろいろと思い上がった発言をくりかえす。そういう奴は燃やされるほど喜ぶから放っておくべきだと昔から決まっているのだけれど、残念なことに現代はそんな秩序だった時代ではなくなってしまった。そこがアナーキーであると誰もが理解していた、ある意味で統制の取れたインターネットはもはや幻なのだ。

 

さて。極端で反社会的で嘘つきで非道徳的だが自己矛盾だけはしていない彼らはこの世に羽ばたき、とにかくまともな人間の癪に障ることを発言する。一部の人間は我慢できず、中道の感性とか社会維持とか真実とか道徳とかの観点で彼らを叩く。そういう批判は、残念なことに、レスバトルに勝つという意味ではまったくの愚策だ。釣り師はそこに堅牢な正当化の防壁を用意しているのだから、いくら殴りつけてもノーダメージだ。

 

もうすこし賢い……いや違う、勝負というものの性質を知っている人間は、釣り師を真っ向から叩くのではなく粗を探す。釣り氏自身の発言や態度のなかに矛盾を探し、釣り師自身の一貫性に文句をつける。彼らの態度がまだマシなのは、彼らにはすくなくとも、戦いに勝とうという意志がある点だ。釣りを見て覚えた自然な反感を、ただまっすぐにぶつけるだけの直情的な奴らとは違って。

 

けれど残念ながら、彼らとておなじ燃料の一部だ。戦いを知っている釣り師は、そう簡単に粗を見つけてしまえるような論理を展開しない。彼らの論理は一見して極端で荒唐無稽だが、近づいて見るとすこぶるよくできている。単純な矛盾などなく、中途半端に戦いを挑んだところで、釣り師の技の前に返り討ちにあうだけだ。

 

かくして釣り師は名声を高める。常識人はけっして名声だとは認めたがらない、悪しき知名度という名声を。直情的に反論する人間、そして中途半端に勝とうとして失敗する人間。前者はみずからの正義に酔い、そして後者は、自分が負けたということを一向に認められずにいる。

 

さて。そうやってひとを動かせるのなら、釣り師とはかなり楽しい趣味だろう。悪趣味で生産性がなく、無駄で無益で無意味だが、本人が楽しいのであればよい趣味だ。それを批判するために道徳や社会正義を持ち出しても仕方がないし、それ以外で勝てるほどわたしはレスバトルが上手ではない。だから、認めてやるしかあるまい。釣りとはなかなか現代的な趣味で、釣りの上手さとはれっきとした特殊技能なのだと。

 

そして案外、奴らは褒められるほうが嫌かもしれない。