美術館前の露店にて

あれは確か、イタリアはフィレンツェを訪れたときのことだった。

 

明るく洗練された南欧の街並みによく映える、有名な美術館にわたしは入った。真っ白なその建物は透き通るようにお洒落で、清らかな美に魅せられたことをよく覚えている。絵画に疎いわたしはまったく知らなかったものの、中には世界的に有名な画家の有名な絵が飾られているらしいと聞いていた。それを生で見るという経験はどうやら、誰かに自慢できるような性質のことであるらしかった。それなりの期待を胸に、わたしはその白亜の建築の中へと歩をすすめた。

 

具体的になにを見たのかは、正直もう覚えていない。有名な画家の有名な絵も、ほかの絵と比べてそう印象に残ったわけでもなかった。たしか、綺麗な建物とは中から見ても綺麗なものなのだな、と思った覚えはある。洗練されていつつも穏やかで、主役たる美術品たちの邪魔にならない。肝心の美術品はさして印象に残らなかったけれど、それでも絵画の持つ印象を損なわないというのは、きっとわたしにとってすごく重要なことだった。なにせ、そのことだけはしっかりと覚えているのだから。

 

さて。そうやってわたしは建物を鑑賞していたわけだけれども、それにはひとつの重大な問題があった。飾られている美術品は各部屋で異なるとはいえ、壁や天井の構造のほうはそう大差ないのだ。そして不幸なことに、わたしには絵画なるものの違いが分からない。聖書のなんらかの場面の描かれた中世の油絵は、なにかすべて一緒なように見えてしまう。ちょうど、美術館の部屋が似たような構造をしているのと同じように。

 

そう。つまりわたしは、飽きたのである。

 

家族旅行だったから、わたしは待たねばならなかった。退屈なわたしは機嫌が悪くなった。ようやく美術館を出たとき、わたしは参っていた。外の光と空気が、なにかすごく新鮮なもののように感じられた。

 

美術館の外には活気があった。現地の住民が通りにシートを引き、観光客目当ての露店を開いていた。見たことのないくらいの明るさで、露店は道沿いにずっと続いていた。さながらそれは、美術館に入れてもらえなかった種々の雑貨たちが繰り広げる、なにを芸術と呼ぶかに関するデモ行進のようにも見えた。

 

その中で、手書きの風景画を売っている露店があった。出口の正面の一等地に陣取るその人の絵は、おそらく大した芸術と呼べるものではないのだろう。しかしながら退屈で参っていたわたしは、それがどうしてか魅力的に見えた。なんだ、館内の名作より、こっちのほうがいいじゃないか。

 

きっとわたしには、美術を見る目がない。そのときわたしは、改めて実感した。わたしみたいな奴は単に、街を散歩させておけばいい。美術館に入れてやる価値はない。そうするとわたしは、そのとき決めた。

 

でも。考え直してみれば、あそこであれを売る魂胆はなかなかなものだ。あの場所を通る観光客は全員、世界屈指の名作を浴びるほど見てきている。目は飽きるほどに肥え、きっと生半可な絵では感動しないようになっている。そんな連中に向けて、彼らは自分の絵を売ろうとしているのだ!

 

だからもしかして、こういう可能性はないだろうか。わたしのようなひとは、実はそれなりにいる。美術館を観光で訪れるひとの結構な割合が、まるで美術を解さない。けれどそういうひとにだって、絵の好みがないわけではない。そしてそんな、冒涜的な美的センスを持つタイプの人間の一部は、彼らの絵を好きだと思って購入する。

 

それはわたしの思い上がりかもしれない。露店で絵を買うのはもしかすれば、美術を解する側の人間なのかもしれない。大量の名作に囲まれていまだ見飽きず、露店さえも巡って美を摂取し続ける、生粋の絵画好きなのかもしれない。でも。

 

わたしが特殊でない可能性も、きっと少しはある。そうわたしは信じる。だから、わたしはしみじみと思う。

 

あの絵はきっと、わたしのような誰かに買われただろうか。