強い誰かを傷つける

誰かを傷つけて変えてしまうのに、そう大した工夫はいらないのかもしれない。

 

ひとを傷つけるための方法論が世の中にはたくさんある。誰かの人格を破壊し、死ぬまで続く歪みを残すための手段はきっと、精密にシステム化されている。ある意味でそれらは人間のバグを突いていて、きっとどんな頑強な人間でも、受ければ再起不能になってしまうのかもしれない。

 

またある意味でそれは人間の仕様を利用していて、きっと誰にでも簡単に扱えるものなのかもしれない。人類は歴史と共に洗練させてきた傷害のシステムは、誰もが簡単に悪魔になることを可能としたわけだ。悲劇の生成装置をかたちづくる、悪意のユニバーサルデザイン。個人の躊躇いをほかにして、安全装置はない。

 

そういう手法の一部は、論文やニュースの形で公開されている。だからその気になれば、誰でもその力を手にすることができる。あとは実際にそれを実行するための環境を手に入れれば……狙った相手は思いのままだ。逆に言えば、ひとたび狙われてしまえば、健全な精神はもう諦めた方がいい。

 

さて。というふうに言っては見たものの、おそらく多くの悪意はそれほど洗練された形ではあらわれない。それを救いだと思うか残念だと思うかはひとに依るだろうが、とにかく現実は理屈ほど厳しくはならないのだ。

 

世の中には悪意の執行部隊がある。どこかの軍の特殊部隊とか、暴力団とか宗教団体とか、とにかくひとを傷つけることを専門にする集団がいる。人類が長年にわたって磨き上げてきた傷害のシステムを彼らは握っていて、専門的な訓練によって、きっと相手が誰でも傷つけ尽くすことができるようになっている。けれど、わたしたちはそうではない。

 

わたしたちは悪意の素人だ。身近な人間を傷つけようとしても、そう上手くはいかない。怒鳴りつけても、ただ距離を置かれるだけかもしれない。SNS で粘着しても、ブロックされておしまいだ。下手をすると、拙いやり口をさらし上げられ、むしろ笑いの種として利用されてしまうかもしれない。システムを活用できないなんとなくの悪意は、強靭な精神の前には無力なのだ。

 

では勉強すればいいのか。確かに、そうかもしれない。古今東西の拷問法を学んで、実践してみること。それを推奨するわけでも、ましてやわたしがやろうとしているわけでもないのだが、そうすれば効果は多少上がるかもしれないのは確かだろう。けれどわたしたちは勉強が嫌いだから、生半可な悪意でそんなことはしない。あるいは、ちょっとの興味本位では。

 

けれどそんな甘い考えでも、傷つけることの可能な精神はある。

 

誰かを傷つけられるということと、誰もを傷つけられるということは別だ。弱い誰かを傷つけられればいいなら、それは確かに誰にでもできる。少し人格を否定してやるとか、そんなことだけで構わない。それには特殊な勉強も、才能も、洗練されたシステムも必要ない。

 

だが強い誰かを傷つけたいなら、ひとは学ぶ必要がある。システムを築き上げる必要がある。想像力と創造力が必要になる。そしてなにより相手を傷つけることによって自分が壊されてしまわないために、サイコパスじみた強さを身につけておく必要がある。

 

人並みの嗜虐心ならわたしにもある。だから弱い者いじめなら、きっとわたしにもできる。誰もがそれをできるのと、まったく同じように。

 

けれど強きをくじくことに関して、わたしはそうではない。その技術を真剣に身につけるほどの好奇心も恨みも、遂行するだけの精神力もおそらく、わたしにはない。

 

だからきっと、わたしにはひとを支配することなどできないのだろう。