全方位鈍感

繊細な人間が歴史上もっとも守られるようになった今日この頃、意思決定にはなににもまして、ひとを傷つけないことが重要とされている。わたしたちのすべての行動は完全に安全でなければならず、もしその原則に反してだれかの心にわずかばかりの傷をつけてしまったならば、そのひとは当然、おしまいということになる。その恐怖はまるで、身体じゅうに張りめぐらされたうえで破かないことを義務付けられている薄膜のように、わたしたちの行動を縛り続ける。

 

とはいえそんな窮屈はだれにも耐えられない。耐えられないので、実際耐えていない。実際のところ現実はそれほど窮屈ではなく、だれも傷つけてはならぬというルールは、形骸化しているとは言わないまでも、完全に機能しているわけでもない。どう考えても守れないほどに厳しいルールの運用には、いつもなんらかの解釈が挟まっている。

 

今回の場合の解釈の余地は、「だれも傷つかない」の定義にある。ほんとうにだれも傷つけないということを保証するかわりにわたしたちはブラックリストを用意し、それに当てはまらないものを「傷つけない」行動とみなす。暮らしていくうえで困った点とはもちろん、そのブラックリストが刻々と更新されてゆくということではあるのが……ここではまあ、その話はしないことにしよう。

 

さて。傷つくと定義されることを禁止するその仕組みに、守られているのがだれなのかはよく分からない。分からないというのはべつに存在するかどうかが分からないという意味ではなく、具体的にだれがどう守られているのかが分からないという意味だ。わたし個人はおそらくかなり鈍感なほうだと自負しており、したがって仕組みが繊細さを守るものである限りにおいて、守ろうとされているのはおそらくわたしではないのだろう。鈍感な人間にとってはそんなもの、あってもなくても同じである。

 

そしてわたしが真に鈍感であるならば、傷つけることを禁止されたこの世の中をもまた、きっと受け入れることができるはずだ。

 

鈍感とはつねに長所である。繊細さが許容されるこの世の中でも、それは変わらない。繊細さはたしかに許容され、尊重されるようになったけれども、繊細であるほうが望ましいという場面は存在しない。気にしなくていいことを気にせずに済むのは、いつでも素晴らしいことに決まっている。

 

現代の風潮は、おそらく損失をも生んでいる。繊細さを受け入れるという社会変革によって、成立しなくなったものごとは間違いなくある。その具体的な中身については、いまさらわざわざ語るようなことではないだろう。されつくされた議論だ。

 

だが同時に鈍感とは、喪失を簡単に受け入れることでもあるのだ。そして鈍感なわたしたちはきっと、社会が切り捨ててしまったものに、たいした名残を感じることなく忘れ去ることができる。