傷をつける方法

ひとを傷つけるには果たして、どれだけの技術が必要になるのだろうか。

 

おそらく、一般的な答えはこうだ。ひとを傷つけるのは誰にでもできる行為で、技術なんかこれっぽっちも必要ない。ひとは至極簡単に取り返しもつかないほどにめちゃくちゃに壊されてしまうもので、そのために必要なのは時間と執念だけだ。ただ長くにわたって訳の分からないことで怒鳴り続けるとか、SNS に「死ね」と書き込み続けるとか、そんなことで簡単にひとは転げ落ちてしまう。

 

この議論はこう続く。だからこそ、わたしたちはそのような行為に目ざとくなければならない。誰にでもできることなのだから、誰もを監視し、行動を法と道徳とで制限しなければならない。世の中に傷つきやすい人間はいるかもしれないが、傷つけやすい人間というものはないのだ。なぜなら、「傷つけやすい人間」とはこの世の全員のことなのだから。

 

しかしながらこの議論には穴がある。というのも、この話は傷つきやすい人間を基準に回っているからだ。傷つきやすいひとはいとも簡単に傷つく、なるほどそれは間違いない。誰もが彼らを傷つけられる、それも結構。だから誰もを監視しなければならない、確かにそれも正しいだろう。だがその簡単な手法で、傷ひとつつけられない相手もいるかもしれない。いや、きっと存在するだろう。

 

そういう頑強な存在のことを、わたしたちは普段考慮に入れない。そういう人間がどれくらいいるのかも、けっして評価しようとはしない。考えてみれば当たり前のことで、傷つかない人間のケアをする必要はないわけだ。誰かが傷つかないということは、喜ばしいことでしかありえないのだから。

 

だからここでは、あえて問題にしてみようと思う。

 

そういう人間を傷つけるのには、どのような工夫が必要だろうか。彼らは怒鳴られても気にしない。自分を怒鳴っている相手の顔を見て、こんなところにほくろなんてあったっけ、とか暢気に思っている。自分に向けられる悪口を見て、悲しむのでも相手を憐れむのでもなく、むしろ興奮する。そういう鈍感な相手に、ひとを傷つけるための通常の方法は通用するだろうか? そういう相手が存在するとして、どのような技をかければ、そいつに音を上げさせることができるだろうか?

 

わたしはそういうことの専門家ではないから、答えは知らない。ひとを傷つけることを目的とする職業であればそういうことを知っているのだろうが、わたしにそういう知り合いはいない。だがきっと、それは戦いとみなせるものだろう。敏感な心をひねる一方的な作業とは違って、相手の心に全力で挑みかかる勝負。

 

そういう勝負が存在しうるのかも、わたしは知らない。人類が作り出した最強の拷問のシステムの前に、屈しない人間などいないのかもしれない。けれど、きっと存在してほしいとわたしは思っている。

 

ひとの心は創造的なものだ。だからそれを壊すのにも、創造性が必要になってほしい。わたしは、そう願っている。人類へと、人類の強さへと。